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長谷川小信(はせがわ このぶ)「淀川蒸気船」(独立行政法人 造幣局蔵)

写真:長谷川小信(はせがわ このぶ)「淀川蒸気船」(独立行政法人 造幣局提供)。淀川の対岸に造幣局と桜並木が描かれている

日本の貨幣鋳造の近代化に貢献した2人の長州人 遠藤謹助と長谷川為治

明治維新後に設置された造幣局は、貨幣鋳造だけでなく、日本の近代工業の礎も築きました。明治時代の造幣局を支えた2人の長州人を紹介します。
明治維新後に設置された造幣局で、長期間、局長を務めた人物に2人の長州人がいます。それは「長州ファイブ(※1)」の1人である遠藤謹助(えんどう きんすけ)と、長谷川為治(はせがわ ためはる)(※2)。どんな人物だったのでしょうか。
謹助は天保7(1836)年、萩藩士の家に生まれました。文久3(1863)年、他の4人と共に英国へ密航留学し、慶応2(1866)年に帰国。同年12月、藩主らが英国海軍キング提督と三田尻(現在の防府市)で会見した際には通訳を務めました。
やがて明治維新となり、外国に通用する貨幣の鋳造が急務と考えた明治政府によって、明治元(1868)年、造幣寮(※3)の建設が始まります。翌年、そのトップの造幣頭(ぞうへいのかみ)に謹助と同じ長州ファイブの井上馨(いのうえ かおる)、続いて井上勝(まさる)が就任。謹助も明治3(1870)年、造幣寮に入り、造幣権頭(ごんのかみ)(※4)となりました。
造幣寮の工場は、日本初の画期的な近代的工場で、その建設や貨幣鋳造などは多くのお雇い外国人の指導によるものでした。しかし彼らの首長で特に高額の給与を得ていたキンドルと造幣寮のトップは度々衝突(※5)。謹助も対立し、明治7(1874)年、自ら造幣寮を去り、造幣寮の自主を求める建白書を政府に提出。翌年、キンドルらは解雇され、自主が実現することになりました。
謹助は明治14(1881)年、造幣局に局長として復帰し、明治22(1889)年には日本人だけの技術で白銅貨幣の鋳造を成功させます。また、造幣局の地には以前から桜があり、謹助は「局員だけの花見ではもったいない」と構内の桜並木の公開を決定。それは今も有名な「桜の通り抜け」として親しまれています。

歴代最長の造幣局長を務めた長谷川為治

長谷川為治は千崎村(現在の山陽小野田市)出身。明治3(1870)年、造幣寮に入りました。キンドルら追放の動きが起きた際、為治も局内の6人の幹部と共に建白書を提出しています。後に為治は、キンドルと激しく言い争った井上馨には「ギンドル」というアダ名が付いていたこと、「その間に挟まれた私どもはつらくて泣くようなことがしばしばありました」と回想。「(キンドルは)遠藤さんが造幣権頭となってから(中略)どうも押さえようがなくなってきました」とも語っていて(※6)、キンドルと謹助の対立が、為治らを外国人主導から脱却する行動へと駆り立てたことがうかがえます。
為治は明治26(1893)年から造幣局長を務め、20年にわたる在位期間は歴代最長を誇ります。その間、動力の電化など、さまざまな功績をあげ、造幣局の発展に尽くしました。また、貨幣の鋳造には、多量の硫酸などの工業薬品や機材などが必要で、それらは早くから局内に造られた設備で自給自足されました。明治10年代には、生産過剰となった硫酸から硫酸ソーダなどさまざまな化学薬品が造られ、硫酸製造技術はその後、造幣局から民間へも伝えられました。
日本人による自主運営のため果敢に行動した謹助・為治ら。彼らが率いた明治時代の造幣局は、日本の近代工業の発展の礎をも築いたのでした。
「遠藤謹助写真」(独立行政法人 造幣局提供)
「遠藤謹助写真」(独立行政法人 造幣局提供)

「遠藤謹助写真」(独立行政法人 造幣局提供)。謹助は萩出身、「長州ファイブ」の一人。造幣局長を約12年間務めた(歴代2位)
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「桜の通り抜けと旧正門写真」(独立行政法人 造幣局提供)
「桜の通り抜けと旧正門写真」(独立行政法人 造幣局提供)

「桜の通り抜けと旧正門写真」(独立行政法人 造幣局提供)。桜の通り抜けの発案者は謹助。構内には謹助の肖像と通り抜けの由来を記した刻んだレリーフがある。旧正門は創業当時の正門
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「桜の通り抜けと旧正門写真」(独立行政法人 造幣局提供)。桜の通り抜けの発案者は謹助。構内には謹助の肖像と通り抜けの由来を記した刻んだレリーフがある。旧正門は創業当時の正門
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「長谷川為治写真」(独立行政法人 造幣局提供)
「長谷川為治写真」(独立行政法人 造幣局提供)

「長谷川為治写真」(独立行政法人 造幣局提供)。為治は現在の山陽小野田市出身。造幣局長を約20年間務めた(歴代1位)
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「長谷川為治写真」(独立行政法人 造幣局提供)。為治は現在の山陽小野田市出身。造幣局長を約20年間務めた(歴代1位)Escキーで戻ります。

「長谷川為治銅像」(独立行政法人 造幣局提供)
「長谷川為治銅像」(独立行政法人 造幣局提供)

「長谷川為治銅像」(独立行政法人 造幣局提供)。貨幣法の制定や動力の電化など、造幣局の発展に尽力した功績をたたえ、旧正門内に胸像が建立されている
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「長谷川為治銅像」(独立行政法人 造幣局提供)。貨幣法の制定や動力の電化など、造幣局の発展に尽力した功績をたたえ、旧正門内に胸像が建立されている
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  1. 遠藤謹介の他、初代外務大臣となった井上馨や、「日本の鉄道の父」井上勝、初代内閣総理大臣となった伊藤博文(いとう ひろぶみ)、「日本の工学の父」山尾庸三(やまお ようぞう)がいる。本文※1へ戻る
  2. 弟は、台湾縦貫鉄道を完成させた長谷川謹介(はせがわ きんすけ)。本文※2へ戻る
  3. 明治10(1877)年、造幣局に改称。本文※3へ戻る
  4. 造幣頭に次ぐ地位。なお、井上馨も井上勝も明治3(1870)年、造幣頭を退職。本文※4へ戻る
  5. 明治政府が明治2(1869)年、英国の銀行と結んだ条約では、造幣寮の機械設備は英国領香港造幣局から買い入れること、建築物の設計・監督者や造幣技術のディレクターなどに多くの英国人技術者を英国の銀行に委任して雇用することとなっており、造幣寮の自主権を犯すものとなっていた。条約は明治8(1875)年に満了し、キンドルらは解雇された。本文※5へ戻る
  6. 『造幣局百年史』『世外侯事歴維新財政談』による。本文※6へ戻る

萩博物館 明治150年記念特別展「長州ファイブ‐幕末・海外留学生の軌跡‐」

幕末、遠藤謹助や井上馨、井上勝、伊藤博文、山尾庸三の5人がなぜ危険をかえりみず、海外へ渡ったのかなどを、県内外の歴史資料の展示を通じて紹介します。

【期間】10月27日(土曜日)から11月25日(日曜日)まで
【場所】萩博物館

参考文献