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「禁門の変」の責任を負った三家老の一人、益田親施

(左)「益田親施肖像画」(須佐歴史民俗資料館蔵)。(右)「御紋御書出 家之紋旗指物合印等之図末家家来」(山口県文書館蔵 毛利家文庫)の中にある益田家の旗指物の絵を使用

「禁門の変」の責任を負った三家老の一人、益田親施

幕末の激動の中で悲運の死を迎えた人々には、藩の家老だった人たちもいました。「禁門の変」の責任を負って切腹した三家老の一人、永代家老の益田親施について紹介します。
幕末、萩藩では、藩士だけでなく、上級の役職者も激動の渦に飲み込まれました。「禁門の変」の責任をとる形で切腹した家老、益田親施(ますだ ちかのぶ)もその一人です。
親施は天保4(1833)年、永代家老の益田家(※1)に生まれました。兵学を吉田松陰(よしだ しょういん)に学び、松陰から「家老中第一流の人材」と評された人物でした。ペリー来航後、萩藩が幕府に命じられて相州(現在の神奈川県)警衛を担った際は、親施が総奉行として相州へ(※2)。現地では善政を行い、任期終了時にはその地の人々から引き留められたほど。安政5(1858)年26歳の時、藩政府の最高責任者である当役(とうやく)(※3)に任命され、藩主を支えていきます。
文久3年(1863)、萩藩が関門海峡で実行した攘夷(じょうい)戦争の後、親施は上京し、公卿に働きかけて攘夷親征(※4)を願い出ます。その実現が近付いた矢先、「八月十八日の政変(※5)」が起き、事態は一変。萩藩勢は京都から追放され、親施はまさに激動の渦中に身を置くこととなりました。

藩主世子を禁門の変に巻き込むまいとした親施

その後、萩藩では、八月十八日の政変で失われた藩主父子の名誉回復を朝廷に求めて進発すべきという声が高まり、元治元(1864)年、親施をはじめ3人の家老らが兵を率いて上京することとなります。折しも英国へ密留学していた伊藤博文(いとう ひろぶみ)・井上馨(いのうえ かおる)が急きょ帰国。イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊の来襲が近いという情報を藩にもたらします。親施は2人の家老(※6)らに続き、また、「天皇を外国の来襲から守るため」として上京することになった藩主世子らに先んじて、7月6日、兵を率いて上京します(※7)
そのころ京都では、萩藩側から藩主父子の名誉回復を朝廷に嘆願し続けていました。しかし、朝廷側から、18日が長州軍撤退の期限として最後通告を突きつけられます。17日、京都郊外男山の石清水(いわしみず)八幡宮で最後の軍議が行われ、親施自身は自重派であり、大坂に一旦退いて世子を待つべきという意見も出ましたが、強硬派を止めることはできず、進軍が決定。ついに19日、京都御所周辺などで激戦となり、長州勢は敗退(禁門の変)。後詰めとして京都郊外で待機していた親施は、急ぎ帰国の途に。その急ぎの帰国は、世子の上京を一刻も早く止め、戦に巻き込まないためでした。
その後、勅命を受けた幕府による長州征討が迫る中、親施ら三家老は藩政府によって徳山(現在の周南市)に身柄を預けられます。親施を慕う大谷樸助(おおたに ぼくすけ)ら(※8)家臣たちが、諸隊と共に親施らを奪還して命を救おうとしますが果たせず、親施ら三家老は禁門の変の責任を負って(※9)切腹となりました(※10)
時を経て明治33(1900)年、山口の亀山公園に「毛利家銅像(※11)」が建立されます。完成した藩主の銅像の台座には、悲運の死を遂げた親施ら4人の家老の顔のレリーフが刻まれました(※12)。幕末の萩藩を支えた彼らの犠牲は忘れられてはいませんでした。
『大谷樸助(おおたに ぼくすけ)編成回天軍実記』(山口県文書館蔵)
『大谷樸助(おおたに ぼくすけ)編成回天軍実記』(山口県文書館蔵)

幽閉された親施を救出しようとして果たせなかった家臣の一人が後にまとめた『大谷樸助(おおたに ぼくすけ)編成回天軍実記』(山口県文書館蔵)。親施の最期が辞世の句「消ゆけば草葉のかげに思ふべし君の御国のはてはいかにと」などとともに記されている
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幽閉された親施を救出しようとして果たせなかった家臣の一人が後にまとめた『大谷樸助(おおたに ぼくすけ)編成回天軍実記』(山口県文書館蔵)。親施の最期が辞世の句「消ゆけば草葉のかげに思ふべし君の御国のはてはいかにと」などとともに記されている
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萩市須佐にある益田親施を祀(まつ)る「笠松神社」。慶応元(1865)年の建立。
萩市須佐にある益田親施を祀(まつ)る「笠松神社」。慶応元(1865)年の建立。

萩市須佐にある益田親施を祀(まつ)る「笠松神社」。慶応元(1865)年の建立。鳥居や灯籠(とうろう)には、本来は存在しない「元治三年」(正しくは慶応二年)や「元治四年」(正しくは慶応三年)の年号が刻まれており、「徳川に追従する慶応の年号を認めなかったため」とされている
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萩市須佐にある益田親施を祀(まつ)る「笠松神社」。慶応元(1865)年の建立。鳥居や灯籠(とうろう)には、本来は存在しない「元治三年」(正しくは慶応二年)や「元治四年」(正しくは慶応三年)の年号が刻まれており、「徳川に追従する慶応の年号を認めなかったため」とされている
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「毛利敬親像」の写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)
「毛利敬親像」の写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)

「毛利敬親像」の写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)。毛利敬親像は明治33(1900)年、山口の亀山公園に建立された「毛利家銅像」の一つ
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「毛利敬親像」の写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)。毛利敬親像は明治33(1900)年、山口の亀山公園に建立された「毛利家銅像」の一つ
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「毛利敬親像」の台座部分のクローズアップ写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)
「毛利敬親像」の台座部分のクローズアップ写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)

「毛利敬親像」の台座部分のクローズアップ写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)。台座の二面に益田親施・福原元僴・国司親相・清水親知の4人の家老のレリーフがあった
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「毛利敬親像」の台座部分のクローズアップ写真(萬鉄五郎記念美術館蔵)。台座の二面に益田親施・福原元僴・国司親相・清水親知の4人の家老のレリーフがあった
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「旧益田邸」写真(須佐歴史民俗資料館蔵)
「旧益田邸」写真(須佐歴史民俗資料館蔵)

「旧益田邸」写真(須佐歴史民俗資料館蔵)。益田邸は、永代家老益田家が本拠地とした須佐にあった。その地には現在、改築された益田館や須佐歴史民俗資料館がある
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「旧益田邸」写真(須佐歴史民俗資料館蔵)。益田邸は、永代家老益田家が本拠地とした須佐にあった。その地には現在、改築された益田館や須佐歴史民俗資料館がある
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益田家に伝わる軍扇・鉄扇・采配(須佐歴史民俗資料館蔵)
益田家に伝わる軍扇・鉄扇・采配(須佐歴史民俗資料館蔵)

益田家に伝わる軍扇・鉄扇・采配(須佐歴史民俗資料館蔵)。軍扇には、表に日像が金、裏に月像が銀で表現されている。采配は軍事の際、指揮する大将の持ち物だった。平成31(2019)年3月31日(日曜日)まで須佐歴史民俗資料館で展示中
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益田家に伝わる軍扇・鉄扇・采配(須佐歴史民俗資料館蔵)。軍扇には、表に日像が金、裏に月像が銀で表現されている。采配は軍事の際、指揮する大将の持ち物だった。平成31(2019)年3月31日(日曜日)まで須佐歴史民俗資料館で展示中
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  1. 奥阿武宰判(現在の萩市須佐・田万川・むつみ地域、山口市阿東地域など)を中心に1万2千石余もの領地を有した大規模地方知行主。須佐村(現在の萩市)に本拠を置き、屋敷を構えた。萩藩家臣で1万石を超えていたのは5家のみ。本文※1へ戻る
  2. 親施は久坂玄瑞(くさか げんずい)の兄で海外事情に通じていた久坂玄機(げんき)や、松陰のおじで師の玉木文之進(たまき ぶんのしん)ら数十人の先学者から意見を聞いて相州へ赴いた。本文※2へ戻る
  3. 当役とは、萩藩の江戸行相(ぎょうしょう)府における最高職。藩主が萩にいるとき、参勤交代で江戸にいるときも、常に藩主に従って補佐した。本文※3へ戻る
  4. 親征とは、天皇自らが軍を率いて戦に赴くこと。本文※4へ戻る
  5. 会津・鹿児島藩を中心とする公武合体派が、尊王攘夷派の七卿や萩藩を京都から追放した政変。藩主父子の入京禁止なども朝廷によって決定された。本文※5へ戻る
  6. 福原元僴(ふくばら もとたけ)、国司親相(くにし ちかすけ)。本文※6へ戻る
  7. 三家老らの進発は、第一陣は浪士らが藩主父子らの名誉回復の哀訴のため、第二陣はその騒動を聞いた福原元僴が浪士らを監視するため、第三陣は国司親相が浪士鎮撫(ちんぶ)のため、第四陣として親施が「池田屋の変」の狼藉(ろうぜき)者を探索するため、とされた。なお、益田家文書「益田親施建議覚」にも天皇を守るために上京といった内容の記述がある。本文※7へ戻る
  8. 益田氏家臣で松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生。親施の死後、その死を悔やみ、保守派の萩藩政府に対して挙兵した諸隊に呼応し、「回天軍」を組織。しかし、保守派の益田氏家臣らによって処刑された。本文※8へ戻る
  9. 幕府側の西郷隆盛(さいごう たかもり)から、萩藩の謝罪の意を見せるよう、三家老らの処分を迫られ、藩政府によって三家老は切腹となった。本文※9へ戻る
  10. 親施は徳山の惣持院で11月12日午前0時頃、切腹。国司親相は徳山の澄泉寺(ちょうせんじ)で12日午前1時過ぎ頃、切腹。福原元僴は徳山から岩国へ送られ、竜護寺(現在の清泰院)で12日、切腹。本文※10へ戻る
  11. 毛利家銅像は、萩藩主父子と4人の支藩主、計6基の巨大な銅像で構成されていた。制作者は日本の洋風塑像(そぞう)の創始者・長沼守敬(ながぬま もりよし)。6基の銅像は戦時中の昭和19(1944)年2月、金属供出により失われた。本文※11へ戻る
  12. 三家老の他に、尊王攘夷派の中心人物の一人で、元治元(1864)年12月25日に切腹した家老・清水親知(しみず ちかとも)。本文※12へ戻る

須佐歴史民俗資料館 明治維新150年記念企画展「明治維新前夜‐萩藩永代家老益田親施と家臣たちの戦い‐」

須佐歴史民俗資料館や旧家臣所蔵の史料などを通じて、益田親施や益田家家臣の組織、「禁門の変」前後の歴史などを紹介。かつて須佐で守られていた東京大学史料編纂所寄託「益田家文書」の一部も写真で“里帰り展示”。全国初公開となる大内氏などの中世の文書も展示中です。

【期間】平成31(2019)年3月31日(日曜日)まで
【場所】須佐歴史民俗資料館「みこと館」

参考文献