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海峡のまち上関。文明開化の夢を運んだ「四階楼」

重要文化財「四階楼」の四階内部。ステンドグラス越しに差し込む光が畳の上に幻想的な影をつくる。画面で最奥のステンドグラスは復元前からのもの。天井には、翼を広げた鳳凰の鏝絵がある

海峡のまち上関。文明開化の夢を運んだ「四階楼」

海上交通の要衝として栄えた海峡のまち上関。歴史を物語るさまざまな建物の一つ、明治時代に建てられたエキゾチックで奇抜な擬洋風建築「四階楼」を紹介します。
上関海峡を擁する上関町は、下関と並ぶ防長両国(現在の山口県)の海上交通の要衝だった地。江戸時代は萩藩領で、本土側の室津(むろつ)港も、海峡をはさんだ対岸の長島にある上関港も北前船(※1)などの風待ち・潮待ちでにぎわいました。また、朝鮮通信使(※2)やシーボルト、多くの志士らも立ち寄り、そうした人々を迎え入れた特徴ある建物がまちの歴史を物語ってきました(※3)
中でも特徴的な建物だったのが有力町人「肥後屋(※4)」の屋敷でした。それは前堂と後堂からなる奥行き50メートル余りもある広大な屋敷で、後堂から石段を下りると海に面した観音開きの門があり、海からも出入りできるようになっていました。萩藩が元治元(1864)年に兵を率いて上京する際(禁門の変(※5))には、5人の公卿(くぎょう)が肥後屋に一時滞在。肥後屋は高杉晋作(たかすぎ しんさく)や桂小五郎(かつら こごろう)との交流もあり、志士たちから厚く信頼されていました。

保存修理の過程で発見。エキゾチックな建物の建築目的とは

この海峡のまちにもやがて文明開化の風が吹き、肥後屋のすぐ近くに明治12(1879)年、擬洋風建築(※6)の風変わりな白壁の建物「四階楼(しかいろう)」(国の重要文化財)が誕生します。それは擬洋風建築の現存例として全国的にも珍しい木造四階建て。外壁や内壁、天井等建物の各所には、昇り龍・菊水紋・唐獅子牡丹(からじしぼたん)・椿の花・鳳凰(ほうおう)などの鏝絵(こてえ)(※7)が施され、各階はいずれも畳敷きながら、四階の窓には色鮮やかなステンドグラス。和でも洋でもない奇抜な建物を見に、当時も遠方から人々が訪れたといいます。
四階楼の施主は小方謙九郎(おがた けんくろう)。栗屋村(現在の周南市)に生まれ、吉田松陰(よしだ しょういん)と親交があった室津の小方市右衛門(いちえもん)(※8)の養子となり、幕末、第二奇兵隊の参謀となって幕長戦争などで戦い、維新後は廻船問屋などを営み、村会議員としても活躍した人物です(※9)
しかし実は、謙九郎がこの四階楼を何の目的で造ったのかという記録は残っていませんでした。ただし完成から4年後、室津が汽船「大阪商船(※10)」の寄港地となり、それを受けて、謙九郎は四階楼を回漕店(※11)兼汽船宿としています。その後、四階楼は、名や所有者が変わりながらも旅館として使われ続け(※12)、平成3(1991)年、老朽化で解体の話が生じたのを機に保存の声が高まり、上関町の所有となりました。
やがて半解体修理が行われる中で幾つかの発見がありました(※13)。その一つが天井の下地板に「周防室津 蒸気船問屋 小方出居(いでい)四階楼」と書かれた建築時の落書きです。出居とは、居間兼来客用の座敷のこと。つまり謙九郎は四階楼を、宿ではなく、当時営んでいた蒸気船問屋を訪れる商人や船主らを応接するために造った可能性が見えてきたのです。また、すでにほとんど失われていたステンドグラスは、フランス製だったことも判明しました。四階楼完成からずっと後のことですが、謙九郎は養子の直人(なおと)を海外の大学に留学させており、実子の長岡外史(ながおか がいし)は軍人となって日本にスキーや民間航空を広めるなどして活躍(※14)。志士だった謙九郎自身、新しい世界との出会いを夢見て四階楼を造ったのかもしれません。
差し込む光がステンドグラスを通して畳の上に幻想的な影を映し、頭上には鳳凰が翼を広げて舞う四階楼。型にはまらない自由奔放な建物は、さまざまな旅人を迎え入れてきた海峡のまちにふさわしい夢の楼閣です。
大正時代の古写真「肥後屋」(上関町教育委員会提供)
大正時代の古写真「肥後屋」(上関町教育委員会提供)

大正時代の古写真「肥後屋」(上関町教育委員会提供)。幕末の肥後屋の屋敷は、道をはさんで前堂と後堂があり、後堂へは海からも出入りできた。写真の二階建ては大正時代の建築で、現存しない
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大正時代の古写真「肥後屋」(上関町教育委員会提供)。幕末の肥後屋の屋敷は、道をはさんで前堂と後堂があり、後堂へは海からも出入りできた。写真の二階建ては大正時代の建築で、現存しない
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絵はがき「上関港全景写真」(山口県文書館蔵)
絵はがき「上関港全景写真」(山口県文書館蔵)

絵はがき「上関港全景写真」(山口県文書館蔵)。この写真の手前が本土側の室津。海沿いの建物のうち、右端が四階楼。向うに見えるのが長島
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絵はがき「上関港全景写真」(山口県文書館蔵)。この写真の手前が本土側の室津。海沿いの建物のうち、右端が四階楼。向うに見えるのが長島
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復元前と復元後の四階楼の様子
復元前と復元後の四階楼の様子

(左)復元前。鏝絵の多くは失われていた。(右) 復元後の現在の様子。復元は、地元の古老の話や古写真などを基に行われた。外壁の四隅に石造りのようなコーナーストーンがあるが、洋風建築を真似て、漆喰に灰墨を混ぜて造られたもの
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(左)復元前。鏝絵の多くは失われていた。(右) 復元後の現在の様子。復元は、地元の古老の話や古写真などを基に行われた。外壁の四隅に石造りのようなコーナーストーンがあるが、洋風建築を真似て、漆喰に灰墨を混ぜて造られたもの
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鏝絵の写真
鏝絵の写真

室内には当初からの鏝絵が残る。この菊水紋は修理前には崩落寸前で、修理の際、鏝絵に和紙を貼るなどして補強して一旦取り外し、後補で塗られていたペンキを落としてから、壁に再び取り付けられた
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室内には当初からの鏝絵が残る。この菊水紋は修理前には崩落寸前で、修理の際、鏝絵に和紙を貼るなどして補強して一旦取り外し、後補で塗られていたペンキを落としてから、壁に再び取り付けられた
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三階北の六畳間にある唐獅子牡丹の鏝絵の写真
三階北の六畳間にある唐獅子牡丹の鏝絵の写真

三階北の六畳間にある唐獅子牡丹の鏝絵。三階には四畳半の部屋もあり、天井の四隅には椿の鏝絵が施されている
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三階北の六畳間にある唐獅子牡丹の鏝絵。三階には四畳半の部屋もあり、天井の四隅には椿の鏝絵が施されている
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ステンドグラスの写真
ステンドグラスの写真

ステンドグラスは四階の四方にある。復元したものも当初と同じフランスのものを使用。光の影は季節や日、時刻によって移ろい、ときには雲の動きで一瞬にして消えてしまう。海から吹き付ける風の音も心に残る
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ステンドグラスは四階の四方にある。復元したものも当初と同じフランスのものを使用。光の影は季節や日、時刻によって移ろい、ときには雲の動きで一瞬にして消えてしまう。海から吹き付ける風の音も心に残る
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  1. 江戸初期から明治時代にかけて、西廻り航路で往来した廻船。本文※1へ戻る
  2. 朝鮮国王が派遣した外交使節団。一行総勢約500人。上関は下関と並んで長州における二つの寄港地の一つとなり、上関には萩藩の公館「御茶屋」が建てられ、藩が盛大にもてなした。本文※2へ戻る
  3. 港の警備や積荷の検査などを行った藩の施設で、県内で唯一、番所の遺構をとどめる「旧上関番所」や、御茶屋跡の門の石垣など、往時の史跡が町内各所に残る。本文※3へ戻る
  4. 交易で財を成し、酒屋業なども営んだ吉崎家。小倉藩主の小笠原家などの御用も務めた。なお、当時の建物は現存しない。本文※4へ戻る
  5. 前年の「八月十八日の政変」で失われた藩主父子の名誉回復を朝廷に求めて、三家老ら長州勢が兵を率いて進発。京都御所などで戦闘となり、長州勢は敗退した。本文※5へ戻る
  6. 明治時代初期、西洋建築をよく知らない大工棟梁が見よう見まねで造った和洋折衷の建築。本文※6へ戻る
  7. 左官が漆喰(しっくい)を材料に、鏝(こて)を使って作った花鳥風月などのレリーフ。本文※7へ戻る
  8. 勤王僧・月性(げっしょう)や、周布政之助(すふ まさのすけ)とも交流があった。本文※8へ戻る
  9. 『小方謙九郎小伝』によれば、小方家の屋敷は志士の隠れ家にもなったといい、謙九郎は文久3(1863)年、奇兵隊に入隊して活動した。本文※9へ戻る
  10. 汽船会社。現在の株式会社商船三井。創業当時は瀬戸内海航路が主力で、汽船は鉄道が普及するまで主要な交通手段だった。本文※10へ戻る
  11. 荷を送る人と海運業者との間に立って、貨物運送の取り次ぎを行う店。本文※11へ戻る
  12. 四階楼の名は四階屋、四海荘へと変わり、平成10年度より半解体修理が行われ、建立当初の姿をほぼ残していたと思われる昭和31年以前の姿に復旧。平成12年度に完成した。本文※12へ戻る
  13. 四階楼の大工棟梁は地元の吉崎治兵衛(よしざき じひょうえ)だったことも、天井吊り木に打ち付けられた幣串(へいぐし)への記載から確認された。幣串とは、神に供える御幣(ごへい)をはさむ串。本文※13へ戻る
  14. 外史は実父の謙九郎と共に暮らしたことはないが、後に対面を果たし、謙九郎や直人とも手紙を交わした。本文※14へ戻る

重要文化財 四階楼

四階楼の内部を見学できます。保存修理工事で発見された幣串や小方謙九郎による落書きなどの歴史資料は、四海楼に併設された上関町郷土史学習館で見ることができます。

参考文献