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「備中高松城址参蹟記念絵はがき(山口県文書館蔵)」と「伝清水宗治着用具足の冑(かぶと)(光市文化センター蔵)」

(左)「備中高松城址参蹟記念絵はがき」(山口県文書館蔵)。古い絵はがきで、下の方には右から「石井山(秀吉陣地)より見たる高松城址全景」と記されている。(右)伝清水宗治着用具足の冑(かぶと)(光市文化センター蔵)

秀吉の水攻めで自刃した備中高松城の城主と光市の高松山清鏡寺・正義霊社

秀吉の水攻めで知られる岡山県の備中高松城。その城主だった清水宗治ゆかりの寺社が 山口県光市にあります。どんなつながりがあるのか、紹介します。
光市浅江の「高松山清鏡寺」境内には、“清水宗治(しみず むねはる)主従の供養塔”と伝わる石塔があります。清水宗治とは、織田信長(おだ のぶなが)の家臣・羽柴秀吉(はしば ひでよし)による水攻めで自刃した備中高松城(※1)の城主。その数年前に毛利輝元(もうり てるもと)方に付いた備中(現在の岡山県西部)の武将でした。備中にゆかりのある武将の寺がなぜ光市にあるのでしょうか。
その水攻めは、輝元と信長の対立が決定的となった天正4(1576)年以降一進一退の戦いが続いた末に起きたものです。毛利方は当時、織田方との最前線にあたる備中と備前(現在の岡山県南東部など)の国境沿いに備中高松城を含む七つの城などを配置していました。
しかし天正10(1582)年4月以降、秀吉の攻撃や調略により、それらの城は次々と落城・開城していきます。やがて5月、低湿地にあった備中高松城は、秀吉によって堤を築かれ、梅雨で増水した川の水を引き入れられて孤立します。毛利方の救援はかなわなかったことから、城主・宗治はついに降伏を決意し、6月4日、城兵らの命と引き換えに、兄らと共に自刃します。その自刃により、毛利方は秀吉と停戦に至ります。しかしその2日前の6月2日には京都において「本能寺の変」が発生。信長が死去(※2)したため、毛利方は苦境を脱しました。
その後、輝元は秀吉の下で中国地方の有力大名として生き抜きましたが、関ヶ原の戦いの後には徳川家康(とくがわ いえやす)によって領国を削られ、防長二カ国(現在の山口県)のみに。そうした中でも、宗治の子・景治(かげはる)(※3)には浅江・野原・島田・立野村(いずれも現在の光市)(※4)など2,500石の領地を与え、萩藩の上級家臣「寄組(よりぐみ)(※5)」として遇することで、自らの命と引き換えに毛利氏を守った宗治に応えました。

光市浅江や立野にある清水宗治ゆかりの寺社

宗治ゆかりの寺が光市にあるのは、景治が江戸時代に領地として与えられた地にあった寺に、父の位牌を安置したことによります。その際、寺の名も父の戒名(※6)にちなみ、高松山清鏡寺に改めました。この景治は、父と同じく歴戦の勇者である一方、輝元から萩藩の苦しい財政を立て直す役に任じられる(※7)など、輝元を支えて活躍しています(※8)
時を経て幕末には、時の当主・親知(ちかとも)が尊王攘夷派として活躍し、文久3(1863)年8月、当時の藩政府の重職の一つである加判役(※9)の一人となります。ところが萩藩は間もなく「八月十八日の政変」「禁門の変」と厳しい立場に立たされます。やがて親知は保守派が政権を握った藩政府から命を受けて、元治元(1864)年12月、自刃。まだ22歳の若さでした。
一命を賭して毛利家を守った宗治や親知のことは明治維新後も忘れられることはありませんでした。明治33(1900)年、山口に造られた毛利家銅像の一つ「毛利敬親(もうり たかちか)像」の台座には、親知のレリーフが刻まれました(※10)。明治42(1909)年には、毛利家が宗治についての岡山県での調査を歴史学者に依頼し、宗治の首塚(※11)などについての報告書を受け取っています。
また光市には、宗治ゆかりの社もあります。その一つが立野にある「正義霊社」。備中高松城に勧請(かんじょう)されていた清水氏の氏神(※12)を立野に勧請し、宗治も祀(まつ)ったもので、天和元(1681)年、宗治百回忌の際に正義霊社と名付けられ、現在では、幕末に自刃した親知も祀(まつ)られています。
高松山清鏡寺や正義霊社。歴史の表舞台の陰には幾多の犠牲があり、時代が変わっても、そうした先人への祈りが人知れず受け継がれてきたことを教えてくれます。
陣鐘(高松山清鏡寺蔵)
陣鐘(高松山清鏡寺蔵)

陣鐘(じんがね)(高松山清鏡寺蔵)。陣鐘とは、軍勢の進退などの合図に打ち鳴らすもの。この陣鐘は、宗治が備中高松城で用いたものと伝わる
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陣鐘(じんがね)(高松山清鏡寺蔵)。陣鐘とは、軍勢の進退などの合図に打ち鳴らすもの。この陣鐘は、宗治が備中高松城で用いたものと伝わる
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鐙(あぶみ) (高松山清鏡寺蔵)
鐙(あぶみ) (高松山清鏡寺蔵)

鐙(あぶみ) (高松山清鏡寺蔵)。鐙とは、馬具の一つで、馬に乗るときに足を踏み掛け、乗馬中に足を支えるもの。宗治所用のものと伝わる
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鐙(あぶみ) (高松山清鏡寺蔵)。鐙とは、馬具の一つで、馬に乗るときに足を踏み掛け、乗馬中に足を支えるもの。宗治所用のものと伝わる
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清水宗治主従の供養塔の写真
清水宗治主従の供養塔の写真

高松山清鏡寺境内にある「清水宗治主従の供養塔」。正面の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が宗治のもの。画像には写っていないが、左右にも宝篋印塔やその一部があり、宗治と共に自刃した人々のものと伝わる
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高松山清鏡寺境内にある「清水宗治主従の供養塔」。正面の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が宗治のもの。画像には写っていないが、左右にも宝篋印塔やその一部があり、宗治と共に自刃した人々のものと伝わる
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正義霊社の写真
正義霊社の写真

宗治と、幕末に自刃した親知を祀る「正義霊社」。江戸時代を通じて清水氏の領地だった立野にある。安政3(1856)年に建立された「正義霊社碑」もある
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宗治と、幕末に自刃した親知を祀る「正義霊社」。江戸時代を通じて清水氏の領地だった立野にある。安政3(1856)年に建立された「正義霊社碑」もある
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「毛利輝元感状(天正10年6月26日付け)」(光市文化センター蔵)の写真
「毛利輝元感状(天正10年6月26日付け)」(光市文化センター蔵)の写真

「毛利輝元感状(天正10年6月26日付け)」(光市文化センター蔵)。輝元が景治に宛てて「宗治が無二の覚悟をもって自害して城兵を助けたことに敵も味方も共に驚いた。当家はその忠功を決して忘れない」とたたえた手紙
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「毛利輝元感状(天正10年6月26日付け)」(光市文化センター蔵)。輝元が景治に宛てて「宗治が無二の覚悟をもって自害して城兵を助けたことに敵も味方も共に驚いた。当家はその忠功を決して忘れない」とたたえた手紙
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「備中国加夜郡高松城水攻図」(部分)(山口県文書館蔵 毛利家文庫)の写真
「備中国加夜郡高松城水攻図」(部分)(山口県文書館蔵 毛利家文庫)の写真

「備中国加夜郡高松城水攻図」(部分)(山口県文書館蔵 毛利家文庫)。江戸時代に描かれたもの。中央に備中高松城。向かって左を流れる川から城の周囲へ水が引き込まれている。右端に「秀吉本陣」とある
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「備中国加夜郡高松城水攻図」(部分)(山口県文書館蔵 毛利家文庫)。江戸時代に描かれたもの。中央に備中高松城。向かって左を流れる川から城の周囲へ水が引き込まれている。右端に「秀吉本陣」とある
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  1. 現在の岡山市にある。本文※1へ戻る
  2. 輝元が信長の死をいつ知ったのかは定かではなく、輝元が毛利方の水軍・村上元吉(むらかみ もとよし)に宛てた手紙によって、遅く共6月8日までには知ったことが分かる。本文※2へ戻る
  3. 備中高松城の水攻めの前、毛利元就(もとなり)の三男・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)に人質として預けられて育った。後に隆景の家臣として活躍。隆景の死去後、輝元に仕えた。本文※3へ戻る
  4. 後に野原村(現在の光市光井(みつい))は清水氏の領地ではなくなった。本文※4へ戻る
  5. 毛利氏一門八家に次ぐ階級。本文※5へ戻る
  6. 高松山清鏡寺に安置されている位牌の戒名は「高松院殿救溺祐君清鏡宗心大居士」。本文※6へ戻る
  7. 毛利氏一門八家の益田元祥(ますだ もとよし)と共に任じられた。本文※7へ戻る
  8. その後、「当役(とうやく)」も務めた。当役は、藩主が国元や江戸にいるときも常に従って藩主を補佐する役。本文※8へ戻る
  9. 藩主が署名や判を押す公文書に判を加える重職。本文※9へ戻る
  10. 当時の毛利家銅像は昭和19(1944)年に兵器用の材料として供出され、現存しない。本文※10へ戻る
  11. 首塚はかつて秀吉の本陣近くの持宝院にあったが、現在は備中高松城址にある。本文※11へ戻る
  12. 村落の守護神、氏族の祖先神など。本文※12へ戻る

山口県文書館 第14回 中国四国地区アーカイブズウィーク
「情報と記録-つたえる つなぐ 文書館-」

「本能寺の変」を村上元吉に伝えた毛利輝元の手紙などの展示をはじめ、萩藩や徳山藩の記録についての歴史探究講座などが行われます。

【期間】6月1日(土曜日)から9日(日曜日)まで


光市文化センター 常設展示

清水宗治のものと伝わる冑や、宗治が子・景治に宛てた書状(レプリカ)などを展示しています。

参考文献