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(左)『岩邑怪談録』の「末永氏、化生(けしょう)に逢ふ(う)事」(岩国徴古館蔵)。(右)城下町岩国の横山地区の写真

(左)『岩邑怪談録』の「末永氏、化生(けしょう)に逢ふ(う)事」(岩国徴古館蔵)。(右)城下町岩国の横山地区。かつて吉川氏の居館を巡っていた堀と錦雲閣。錦雲閣は明治18年、吉香神社絵馬堂として、江戸時代にあった矢倉を模して造られた

岩国のサムライが書いた妖怪たち『岩邑怪談録』

江戸時代に著作された岩国の怪談を明治時代に編集した、挿絵付きの『岩邑(がんゆう)怪談録』が岩国徴古館に所蔵されています。江戸時代の城下町・岩国が見えてくる怪談を紹介します。
江戸時代の吉川(きっかわ)氏の城下町・岩国(※1)。吉川氏の居館や上級武士の屋敷が並ぶ錦川西岸の横山地区と、東岸の町人などのまちを錦帯橋が結んでいました。そんな往時の日常をしのぶことができる風変わりな読み物として『岩邑怪談録』(※2)があります。原本は天保年間(1830-1844年)に岩国藩士・広瀬喜尚(ひろせ きしょう)が書いたもので、明治時代に旧岩国藩士・藤田葆(ふじた しげる)が編集した『岩国沿革志』(※3)に収録されています。その中から二つの怪談を紹介しましょう。
「末永何某(なにがし)が龍門寺(※4)の小姓(こしょう)をしていたとき、ある夜、福光寺(※5)へ使いに行くことになった。すると藤猫(※6)が現れ、後ろになったり、先になったりして付いてきたが、福光寺の辺りでいなくなった。用事を済ませて帰り始めると、また藤猫が現れ、もつれるように付いてきたが、龍門寺の辺りまで戻ると消え、今度は白い浴衣のようなものが二つ現れ、小姓を慕って付いてくる。それがことのほか怖い。小姓は龍門寺へ駆け込み、大量に水を飲んだそうだ」…。
福光寺は横山地区の東端、城郭地を守った錦川上流側の「上口門(※7)」近くに今もあり、一方の龍門寺は今はありませんが、横山地区の西端、下流側の「下口門」近く、寺谷(※8)(現在の紅葉谷)の最奥にありました。“白い浴衣のようなもの”の正体は不明ですが、山の麓(ふもと)に広がる城下町の西端から東端まで夜、一人で往復した小姓の心細さが伝わってくる怪談です。

峠に出たっ!! ちんちろりの妖怪

次は道祖峠(さいのたお)(※9)を通って夜、城下町に帰る途中の武士の話です。「加藤某という人が夜遅く、道祖峠を越えて家に帰ろうとしていた。すると後ろから小坊主が来て『加藤殿はちんちろり』と言う。加藤は心の強い人だったので『そういうお前こそ、ちんちろり』と言い返し、互いに張り合いながら進んだ。ところが、その小坊主が加藤の家の門口(かどぐち)まで付いてきた。加藤が門口を閉めると、小坊主は門の屋根からにこにこと笑い、『さても強い者じゃ』と言ったのである」…。
この話には、後に誰かが付け加えたのか、次の文が続きます。「岩国にて、人に負けじと物を言い返すとき、『そういう者こそ、ちんちろり‐』という言葉がある。この化け物より出たのに違いない」。
日本では古来、怪談が多く、江戸時代後期には『稲生物怪録(いのうもののけろく・ぶっかいろく)(※10)』が評判となり、特に国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)(※11)は大いに魅せられ、写本を制作。近代以降もさまざまな学者が妖怪に関心を抱き、妖怪学として研究もされてきました(※12)
岩邑怪談録の原作者の広瀬喜尚も学者といえるような岩国藩士で、編集した藤田葆は巻頭で次のように書いています。「(喜尚は)普段好んで歴史雑書を読み、世に博識家と言われた。著書に『玖珂郡志』などがあり、その中にこの怪談録がある。(中略)そもそも昔、岩国辺りは狐・狸・川獺(カワウソ)がすこぶる多く、そのために惑わされた者が少なくない。(中略)今、これを見て、当時の風俗を想像するにも十分足りる(後略)」(※13)
妖怪は、村境や峠、この世とあの世の境である墓場など、“境界”に出現しやすいと分析した研究があり(※14)、“白い浴衣のようなもの”も“ちんちろり”も境界の妖怪と言えるでしょう。妖怪は日常に潜む何気ない不安から生まれ、怪談が人々を引き付けてきたのは、そこに共感や、時におかしみなどもあり、それによって人々の心が結び合わされ、さらに伝えたい気持ちが誘発されてきたからかもしれません。
『岩邑怪談録』の「末永氏、化生に逢ふ事」(岩国徴古館蔵)の写真
「『岩邑怪談録』の「末永氏、化生に逢ふ事」(岩国徴古館蔵)の写真

『岩邑怪談録』の「末永氏、化生に逢ふ事」(岩国徴古館蔵)
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『岩邑怪談録』の「加藤氏、変化に逢ふ(う)事」(岩国徴古館蔵)の写真
『岩邑怪談録』の「加藤氏、変化に逢ふ(う)事」(岩国徴古館蔵)の写真

『岩邑怪談録』の「加藤氏、変化に逢ふ(う)事」(岩国徴古館蔵)
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岩国の歴史資料を保存・展示している「岩国徴古館」の写真
岩国の歴史資料を保存・展示している「岩国徴古館」の写真

岩国の歴史資料を保存・展示している「岩国徴古館」。江戸時代、ここには行政一般を担当した役所「御蔵元(おくらもと)」があった。“末永氏”が龍門寺と福光寺を往復した道の途中、吉川氏居館跡から堀をはさんですぐのところにある
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岩国の歴史資料を保存・展示している「岩国徴古館」。江戸時代、ここには行政一般を担当した役所「御蔵元(おくらもと)」があった。“末永氏”が龍門寺と福光寺を往復した道の途中、吉川氏居館跡から堀をはさんですぐのところにある
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明治25(1892)年に造られた旧吉川邸の厩門の写真
明治25(1892)年に造られた旧吉川邸の厩門の写真

明治25(1892)年に造られた旧吉川邸の厩門(うまやもん)。江戸時代、御厩があった。岩国徴古館の隣にある
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明治25(1892)年に造られた旧吉川邸の厩門(うまやもん)。江戸時代、御厩があった。岩国徴古館の隣にある
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“末永氏”が小姓をしていた龍門寺跡の写真
“末永氏”が小姓をしていた龍門寺跡の写真

“末永氏”が小姓をしていた龍門寺跡。寺谷(現在の紅葉谷)の中にあった。現在は公園。龍門寺の池が残るほか、後に設置された六角亭がある
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“末永氏”が小姓をしていた龍門寺跡。寺谷(現在の紅葉谷)の中にあった。現在は公園。龍門寺の池が残るほか、後に設置された六角亭がある
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寺谷(現在の紅葉谷)の写真
寺谷(現在の紅葉谷)の写真

寺谷(現在の紅葉谷)で、まるで「末永氏、化生に逢ふ事」のように猫に出会った。紅葉谷は秋、紅葉の名所となる
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寺谷(現在の紅葉谷)で、まるで「末永氏、化生に逢ふ事」のように猫に出会った。紅葉谷は秋、紅葉の名所となる
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  1. 岩国藩は萩藩の支藩。毛利元就(もうり もとなり)の次男・吉川元春(もとはる)の第三子、広家(ひろいえ)を初代とする。江戸時代は藩ではなく、岩国領だったが、明治元(1868)年に吉川氏が城主格を許され、岩国藩となった。本文※1へ戻る
  2. 岩邑怪談録は『岩国市史 史料編3-2 近代・現代』に収録。本文※2へ戻る
  3. 吉川氏が慶長5(1600)年に岩国の領主となってから明治4(1871)年に廃藩となるまでの藩制編年をはじめ、岩国の文学、武芸などを約200冊にまとめたもの。本文※3へ戻る
  4. 寺谷(紅葉谷)の最奥にあった真言宗の寺。現在は公園となっている。本文※4へ戻る
  5. 真言宗の寺。万徳院。現在も同じ地にある。要害の鬼門を押さえるものとして置かれ、城(吉川氏の居館)の防備の一翼を担わせた。岩国五カ寺の一つ。本文※5へ戻る
  6. 白と黒とのまだら模様の猫。本文※6へ戻る
  7. 上口門(千石原門)と下口門(万谷門)の間に乗越門があり、乗越門の地と対岸を結んだ橋が錦帯橋。それらの門は現存しない。本文※7へ戻る
  8. 現在は永興寺(ようこうじ)や、洞泉寺(とうせんじ)、吉川家墓所がある。江戸時代には、多くの寺が道の両側に並んでいた。本文※8へ戻る
  9. 岩国の川西地区と、柱野地区の西氏(にしうじ)を結ぶ峠。かつてその道は、岩国藩庁から萩城への往還として重んじられた。本文※9へ戻る
  10. 備後国三次(現在の広島県三次市)の少年のもとに1カ月間、奇想天外な妖怪や怪現象が次々と出現したが、少年は耐え通したという物語。本文※10へ戻る
  11. 幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた国学者。本文※11へ戻る
  12. 明治・大正時代の仏教哲学者で、東洋大学の創立者でもある井上円了(いのうえ えんりょう)。民間の迷信打破に努め、『妖怪学講義』などを著作。本文※12へ戻る
  13. 巻頭の言葉には、次の文もある。「明治時代、今田純一という人がこれ(原本)を写し、横道孫七氏に想像画の制作を依頼。さらに今田氏は話を加えて一冊にまとめ、私(藤田葆)に見せたのである」。本文※13へ戻る
  14. 『妖怪の民俗学 日本の見えない空間』、『47都道府県・妖怪伝承百科』などによる。本文※14へ戻る

参考文献