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(左)徳山藩初代藩主と最後の藩主をまつる祐綏(ゆうすい)神社の写真と(右)徳山藩3代藩主「毛利元次像」徳山毛利家蔵の写真

(左)徳山藩初代藩主と最後の藩主をまつる祐綏(ゆうすい)神社。(右)徳山藩3代藩主「毛利元次像」(徳山毛利家蔵)。元次は歴代藩主の中でも特に学問・教育に力を注ぎ、古今の書籍なども積極的に収集した

藩を失った男たちの選択 —徳山藩再興300年—

今年は、幕府によって改易された徳山藩が再興を果たしてから300年。
改易によって突然、藩がなくなったとき、藩士らはどうしたのか。最新の研究も含めて紹介します。
江戸時代、幕府によって多くの大名が改易(※1)となりました。大名の改易は、藩士らにとっては、今で言えば勤め先がなくなること。そんな突然の事態が萩藩の支藩・徳山藩(現在の周南市など)(※2)を襲いました。
事の発端は正徳5(1715)年、徳山藩3代藩主毛利元次(もうり もとつぐ)(※3)のときに起きた「万役山(まんにゃくやま)事件」。本藩(萩藩)領との境界にあった松の木1本の伐採を巡って本藩と対立した事件でした(※4)。解決は難航し、翌年、萩藩5代藩主毛利吉元(よしもと)(※5)から幕府へ「徳山藩主元次の隠居」「嫡子(※6)への家督相続」の願書が出されます。
ところが幕府から下されたのは「徳山藩は改易(領地は萩藩へ還付)」「元次は出羽国新庄藩(※7)へ配流」。それは萩藩の思惑をはるかに超えた処分でした。
藩士らは皆いわゆる“浪人”となってしまうのか。幸い、萩藩によって召し抱えられる方針が早々に決まり、160石以上の徳山藩士は萩に(※8)、それ以下の藩士は萩へ1日で着く場所に住むよう指示されます。この条件の中で多くの者が選んだのは、徳山に近い現在の防府市近辺の地でした。こうして徳山藩士は「萩藩士」として新たに出発することになりました。

意外にも多かった!! "失業"の道を自ら選んだ藩士たち

ところが一部には、彼らとは道を異にする人たちがいたのでした。そうした道を選んだ人物として、例えば岡部六七(おかべ ろくしち)・戸田佐右衛門(とだ すけえもん)父子らがいます。その3人は目をかけてくれた元次が現地での生活に不便を生じているのではと考え、萩藩に一度は仕えたものの永の暇、つまり“退職願い”を出し、慰留されても決意を変えず、解雇に。その後、旧臣の奈古屋里人(なごや さとんど)(※9)を中心に、ひそかに藩の再興のために活動し、幕府老中の屋敷へ農民・町人からの嘆願書の形をとった投書を決行するなど、藩再興の功労者として位置付けられてきました(※10)。また、萩藩の召し抱えの待遇を不満として、持弓(もちゆみ)(※11)と呼ばれるグループに属した21人全員も退去し、このうちの2人は、藩の再興を江戸へ訴え出る農民一揆を計画。こうした彼らの活動については、従来よく知られていました。
実はこのほかにも萩藩の召し抱えに応じなかった人々がいたことが分かってきました(※12)。例えば徳山藩江戸藩邸の13人。彼らはいろいろと理由を挙げて帰国を拒んだ末に浪人の道を選ぶのですが、中には妻を離縁して出奔(しゅっぽん)する者もいました。また、大坂藩邸に詰めていた人々、元次が藩主となって以降、登用された人々からも禄を離れる者が出ました。“失業”を選んだ者が意外にも多かったのは、元次への思いや改易の原因となった萩藩へのわだかまりがあったからかもしれません。
享保4(1719)年、元徳山藩士らの再興運動に加えて、萩藩主から3年前と同じ内容の願書が再び出された結果、幕府は嫡子を新たな藩主として徳山藩の再興を許可します。併せて元次も罪を許されて江戸へ(※13)。御家再興がかなった元藩士や領民らは「千秋万歳(せんしゅうばんぜい)(※14)」と唱えて祝ったといいます(※15)
7月、元藩士らは徳山に戻ります(※16)。ただし萩藩の待遇を不満として退去した持弓が徳山藩に再仕官できたのは、再興から2年後のことでした。
本藩・支藩の関係がこじれ、改易にまで発展した徳山藩。再興後数年は萩藩から付家老(つけがろう)(※17)が遣わされましたが、再興なった徳山藩は藩士らに支えられ、明治4(1871)年まで続いたのでした。
「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」(城下町徳山部分)(山口県文書館蔵)の写真
「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」(城下町徳山部分)(山口県文書館蔵)

「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」(城下町徳山部分)(山口県文書館蔵)。藩再興後の寛保2(1742)年に制作されたもの。上部の「館」とある部分(たて山の下)が徳山藩主の御館(城)。画面の下、右端から左端まで続く道が山陽道
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「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」(城下町徳山部分)(山口県文書館蔵)。藩再興後の寛保2(1742)年に制作されたもの。上部の「館」とある部分(たて山の下)が徳山藩主の御館(城)。画面の下、右端から左端まで続く道が山陽道
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周南市徳山動物園の写真
周南市徳山動物園の写真

徳山藩主の御館(城)跡にある「周南市徳山動物園」。周南市文化会館や祐綏神社なども御館(城)跡にある。なお、動物園内には、元次が朝夕座って太華山の山頂にある仏像を拝んだと伝わる「遥拝石」が残る
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徳山藩主の御館(城)跡にある「周南市徳山動物園」。周南市文化会館や祐綏神社なども御館(城)跡にある。なお、動物園内には、元次が朝夕座って太華山の山頂にある仏像を拝んだと伝わる「遥拝石」が残る
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「毛利元就像」(部分)(徳山毛利家蔵)の写真
「毛利元就像」(部分)(徳山毛利家蔵)の写真

「毛利元就像」(部分)(徳山毛利家蔵)。元次は元就(もとなり)・輝元の直系で先祖崇拝の意識が強かった。この肖像画は、元就の本拠であった安芸国(あきのくに)吉田へ元次が家臣を派遣し、庄屋だった世良家所蔵の肖像画を借用し、絵師に描かせたもの

「毛利元就像」(部分)(徳山毛利家蔵)。元次は元就(もとなり)・輝元の直系で先祖崇拝の意識が強かった。この肖像画は、元就の本拠であった安芸国(あきのくに)吉田へ元次が家臣を派遣し、庄屋だった世良家所蔵の肖像画を借りて、絵師に写させたもの
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万役山事件の石碑「万役山尾崎」の写真
万役山事件の石碑「万役山尾崎」の写真

周南市桜木3丁目(周南市シルバー人材センター入り口)、市道脇にある万役山事件の石碑「万役山尾崎」。徳山藩では、この地を「尾崎山」と呼んでいた
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周南市桜木3丁目(周南市シルバー人材センター入り口)、市道脇にある万役山事件の石碑「万役山尾崎」。徳山藩では、この地を「尾崎山」と呼んでいた
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「徳山事記」(毛利家文庫/山口県文書館蔵)の写真
“「徳山事記」(毛利家文庫/山口県文書館蔵)の写真

“「徳山事記」(毛利家文庫/山口県文書館蔵)。萩藩が徳山藩断絶の発端となった万役山事件から、藩再興がかなうまでをまとめたもの。目録を含む全14巻からなる
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「徳山事記」(毛利家文庫/山口県文書館蔵)。萩藩が徳山藩断絶の発端となった万役山事件から、藩再興がかなうまでをまとめたもの。目録を含む全14巻からなる
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「毛利吉元書状 享保4(1719)年6月1日付」(徳山毛利家文庫「木箱別置」/山口県文書館蔵)の写真
「毛利吉元書状 享保4(1719)年6月1日付」(徳山毛利家文庫「木箱別置」/山口県文書館蔵)の写真

「毛利吉元書状 享保4(1719)年6月1日付」(徳山毛利家文庫「木箱別置」/山口県文書館蔵)。幕府が徳山藩の再興を認めたことから、萩藩主の吉元が元徳山藩主の嫡子に、萩藩からの3万石の分知と徳山居住を伝えた書状。今年公開が始まった「木箱別置文書」の中にある
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「毛利吉元書状 享保4(1719)年6月1日付」(徳山毛利家文庫「木箱別置」/山口県文書館蔵)。幕府が徳山藩の再興を認めたことから、萩藩主の吉元が徳山藩3代藩主の嫡子に、萩藩からの3万石の分知と徳山居住を伝えた書状。今年公開が始まった「木箱別置文書」の中にある
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  1. 身分を取り上げ、領地や家禄、屋敷なども没収すること。本文※1へ戻る
  2. 毛利輝元(てるもと)の第2子・就隆(なりたか)が徳山藩の始祖。本文※2へ戻る
  3. 徳山藩2代藩主の兄。徳山藩初代藩主の庶子だったことから、2代藩主没後の次期藩主選定に当たり、長府毛利家から養子を迎える話もあった。本文※3へ戻る
  4. 両藩の境界にあった松の木を伐採して持ち帰ろうとした萩藩領の農民を、徳山藩の足軽が殺害。萩藩領の農民らは、殺害した人物の引き渡しを求めるよう萩藩に訴えた。ただし事件の経緯については双方の意見が食い違っていた。本文※4へ戻る
  5. 萩藩の支藩・長府藩3代藩主の長男。本文※5へ戻る
  6. 元次の嫡子・百次郎(ももじろう)。後の徳山藩4代藩主・元堯(もとたか)。本文※6へ戻る
  7. 現在の山形県新庄市周辺。本文※7へ戻る
  8. 家老や側近は責任を問われ、その後、遠島となった。本文※8へ戻る
  9. 元次がまだ藩主だったときに罪を得て徳山藩を離れた。本文※9へ戻る
  10. 忠臣として有名な5人として、他に戸田佐右衛門の兄・吉弘嘉右衛門(よしひろ かえもん)。嘉右衛門は、元次の娘が他家へ嫁ぐに当たって付き従い、当時は江戸に留まっていた。幕府老中の屋敷へ、農民や町人からの嘆願書の形をとった投書などを行ったという。 本文※10へ戻る
  11. 弓術に精通した家のグループ。本文※11へ戻る
  12. 吉田真夫「徳山藩断絶時における藩士の動向について」。本文※12へ戻る
  13. 元次は江戸に戻った翌月の享保4(1719)年11月、病死。本文※13へ戻る
  14. 千年万年、永遠の繁栄を願う言葉。本文※14へ戻る
  15. 農民一揆を計画した持弓の1人が残したものを基に長男が編纂した『隠秘録』による。本文※15へ戻る
  16. 徳山藩に再仕官しなかった元藩士らもいる。本文※16へ戻る
  17. この場合は、本藩から支藩へ、監督や補佐などのために遣わされた家老。本文※17へ戻る

第130回 山口県地方史研究大会

開催日:11月10日(日曜日)
場所:周南市学び・交流プラザ
山口県地方史学会の主催で、徳山藩に関する研究発表や巡見が行われます。どなたでも参加できます。


周南市立中央図書館 図書館資料展示

開催期間:12月26日(木曜日)まで(予定)
場所:2階フロア 展示コーナー
徳山藩再興300年を記念し、周南市立中央図書館所蔵の江戸時代の貴重な史料を月替わりで展示中。


周南市美術博物館 徳山の歴史 特設コーナー

開催期間:通年
場所:周南市美術博物館2階
徳山の歴史などを紹介している常設展示。中でも特設コーナーでは現在「没後300年 三代藩主毛利元次」として12月末までの予定で、学問好きだった元次の人物像などを物語る貴重な史料を展示中(展示替えあり)。

参考文献