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凌雲寺跡の「総門跡」の写真

凌雲寺跡の「総門跡」。中央にある開口部周辺から多数の瓦が出土し、かつてそこに瓦葺の門があった可能性が見えてきた。入母屋造の屋根を持つ楼門だった可能性もある

瓦が物語る、失われた凌雲寺の謎 -大内氏遺跡指定60周年-

今年は山口市にある「大内氏遺跡」が国の史跡に指定されて60周年に当たります。
その大内氏遺跡の一つ、近年、発掘調査が進む、大内義興の菩提寺とされる凌雲寺跡を紹介します。
山口市郊外の吉敷川上流、かつて棚田が広がっていた台地へのあぜ道を進むと、巨石を組み上げた「総門跡」と呼ばれる石壁が忽然(こつぜん)と現れます。高さ約2.6メートル、全長約62.7メートル。大内氏遺跡(※1)「凌雲寺跡」を象徴する豪壮な石壁です。凌雲寺は室町時代、西国一の力を誇った大名で享禄元(1528)年に死去した大内義興(おおうち よしおき)(※2)の菩提寺と考えられている寺(※3)。今は、石壁や複数の石垣などが残りますが、建造物としては後世に造られた小さな祠があるのみで、謎は多く、廃虚の圧倒的な風景に魅了される人は少なくありません。
凌雲寺跡の謎の一つは寺の歴史です。史料に現れる記述は少なく、そのことが寺を一層謎めいたものとしています。ただし室町時代の史料から、凌雲寺は大内氏と深い関係があった臨済宗の高僧(※4)によって1500年代初頭に創建されたと推測されています。1800年代に萩藩が作った地誌(※5)にはすでに「凌雲寺廃趾(はいし)」とあり、1500年代半ばに大内氏が滅亡するとともに寺は衰退したと考えられています。
凌雲寺跡の北隅にある「大内義興の墓」と伝わる石塔も謎の一つです。江戸時代の1800年代の地誌には「義興卿墳」と記され、明治21(1888)年には墓の傍らに毛利(もうり)氏(※6)によって「大内義興卿墓」の碑が建立されました。しかし昭和60(1985)年ごろ、墓は形から見て、義興が亡くなった年より約200年前の南北朝初期のものという説が出されました(※7)。では誰の墓なのか。その謎を解く手がかりは見つかっていません。

瓦に刻まれた文様は大内菱? 家紋入り瓦として日本最古の可能性も…

何より最大の謎は、広い凌雲寺跡のどこにどんな建物があったのかです。それについては平成21(2009)年から発掘調査が始まった中で、総門跡の石壁の中央開口部周辺から多くの瓦が見つかり、そこに瓦葺きの門があった可能性が浮かんできました。
また、その開口部を北へ進んだ地中からは、8段と推定される階段遺構が発見され、門から階段を上り、寺の中心部へ向かうようになっていたことが見えてきました。
さらに階段遺構を北へ進んだ地中からは、土器や陶磁器、そしてさまざまな種類の瓦や塼(せん)と呼ばれる敷瓦が特に数多く出土しました。塼とは、禅宗建築の床に、斜め格子状に敷き詰められる平らな瓦。凌雲寺跡から出土した塼には、履物で擦ったような一定方向の跡もありました。それらの塼をはじめ、さまざまな瓦の種類の組み合わせなどから、そこにかつて本瓦葺(ほんがわらぶき)(※8)の屋根を持つ、塼敷の禅宗建築があった可能性が浮かび上がってきたのです。
加えて大内氏の家紋「大内菱」と思われる紋様が入った瓦も見つかっています。これまで家紋入りの瓦の成立は豊臣(とよとみ)政権時代で、使用例の最古として確認されているのは1500年代後半です。しかし、凌雲寺が1500年代初頭の創建とすれば、家紋入り瓦の成立の時期が半世紀さかのぼる可能性もあります。
謎のベールに包まれてきた大内氏ゆかりの凌雲寺跡。国の史跡指定から60年を経て、地中に数百年間眠り続けた瓦から今、失われた寺の姿が浮かび上がりつつあります。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)と「大内義興卿墓」の碑の写真
宝篋印塔(ほうきょういんとう)と「大内義興卿墓」の碑の写真

凌雲寺跡にある大内義興の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、毛利元徳が明治時代に建立した「大内義興卿墓」の碑。隣には義興の夫人や、寺を開いた僧の墓と伝わる石塔、背後には3基の墓の集石遺構もある
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凌雲寺跡にある大内義興の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、毛利元徳が明治時代に建立した「大内義興卿墓」の碑。隣には義興の夫人や、寺を開いた僧の墓と伝わる石塔、背後には3基の墓の集石遺構もある
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凌雲寺跡の弥勒堂にかつて安置されていた仏像の一つ(山口市歴史民俗資料館蔵 山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真
凌雲寺跡の弥勒堂にかつて安置されていた仏像の一つ(山口市歴史民俗資料館蔵 山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真

凌雲寺跡の弥勒堂にかつて安置されていた仏像の一つ(山口市歴史民俗資料館蔵 山口市教育委員会文化財保護課提供)。弥勒堂は室町時代のものではなく、後世に造られたもの。堂内にあった弥勒菩薩縁起を記した木額によれば、仏像は凌雲寺にあったもので弘治元(1555)年の火災から焼失を免れたものというが、真偽は不明
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凌雲寺跡の弥勒堂にかつて安置されていた仏像の一つ(山口市歴史民俗資料館蔵 山口市教育委員会文化財保護課提供)。弥勒堂は室町時代のものではなく、後世に造られたもの。堂内にあった弥勒菩薩縁起を記した木額によれば、仏像は凌雲寺にあったもので弘治元(1555)年の火災から焼失を免れたものというが、真偽は不明
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山口市内の禅寺「洞春寺(とうしゅんじ)観音堂」(国の重要文化財)の内部(山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真
山口市内の禅寺「洞春寺(とうしゅんじ)観音堂」(国の重要文化財)の内部(山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真

禅宗建築の床の一例。塼が敷き詰められた山口市内の禅寺「洞春寺(とうしゅんじ)観音堂」(国の重要文化財)の内部(山口市教育委員会文化財保護課提供)。
なお、観音堂は、かつて山口市滝にあった大内持盛(もちもり)の菩提寺「観音寺」の本堂。洞春寺の地には室町時代、大内盛見(もりはる・もりみ・もりあきら)が建立した禅寺「国清寺(こくしょうじ)」があり、現在も残る山門は国清寺のもの
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禅宗建築の床の一例。塼が敷き詰められた山口市内の禅寺「洞春寺(とうしゅんじ)観音堂」(国の重要文化財)の内部(山口市教育委員会文化財保護課提供)。
なお、観音堂は、かつて山口市滝にあった大内持盛(もちもり)の菩提寺「観音寺」の本堂。洞春寺の地には室町時代、大内盛見(もりはる・もりみ・もりあきら)が建立した禅寺「国清寺(こくしょうじ)」があり、現在も残る山門は国清寺のもの
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大内氏の家紋「大内菱」とみられる文様が入った軒平瓦(のきひらがわら)(山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真
大内氏の家紋「大内菱」とみられる文様が入った軒平瓦(のきひらがわら)(山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真

凌雲寺跡で採集された、大内氏の家紋「大内菱」とみられる文様が入った軒平瓦(のきひらがわら)(山口市教育委員会文化財保護課提供)
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凌雲寺跡で採集された、大内氏の家紋「大内菱」とみられる文様が入った軒平瓦(のきひらがわら)(山口市教育委員会文化財保護課提供)
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上空から見た凌雲寺跡(山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真
上空から見た凌雲寺跡(山口市教育委員会文化財保護課提供)の写真

上空から見た凌雲寺跡(山口市教育委員会文化財保護課提供)。上が北。南に総門跡の石壁。石壁の北、木立が茂る中に小祠(弥勒堂)や大内義興の墓と伝わる石塔などがある
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上空から見た凌雲寺跡(山口市教育委員会文化財保護課提供)。上が北。南に総門跡の石壁。石壁の北、木立が茂る中に小祠(弥勒堂)や大内義興の墓と伝わる石塔などがある
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凌雲寺の想定復元イメージ図(山口市教育委員会文化財保護課提供)の画像
凌雲寺の想定復元イメージ図(山口市教育委員会文化財保護課提供)の画像

凌雲寺の想定復元イメージ図(山口市教育委員会文化財保護課提供)。発掘調査では建物跡を遺構としては確認できていない。この図は瓦や塼の出土傾向をもとに、建物の構造や配置を推定したもの。なお石垣101は、総門跡と伝わる石壁
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凌雲寺の想定復元イメージ図(山口市教育委員会文化財保護課提供)。発掘調査では建物跡を遺構としては確認できていない。この図は瓦や塼の出土傾向をもとに、建物の構造や配置を推定したもの。なお石垣101は、総門跡と伝わる石壁
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  1. 大内氏館・築山(つきやま)跡・高嶺城(こうのみねじょう)跡・凌雲寺(りょううんじ)跡から成る。本文※1へ戻る
  2. 義興は、将軍の座を追われて山口に下向した前将軍・足利義稙(あしかが よしたね)を8年間世話し、1508(永正5)年には大軍を率い、義稙を擁して上洛。義稙を将軍の座に復帰させた。おもしろ山口学「守護大名 大内氏の食文化 第1回 発掘調査から見えてきた盛大な宴」 「大内義興と足利義稙 第1回 周防国で8年暮らした流浪の足利将軍」 「大内義興と足利義稙 第2回 船岡山の戦いと、将軍の政権を支えた義興」参照。本文※2へ戻る
  3. 義興の戒名が「凌雲寺殿傑叟義秀(けっそうぎしゅう)」であったことによる。天文9(1540)年には義興の十三回忌が凌雲寺で行われている。本文※3へ戻る
  4. 了庵桂悟(りょうあん けいご)。義興十三回忌の記録による。また、山口で暮らしていた画僧・雪舟(せっしゅう)のアトリエを訪ね、後に遣明船の正使として山口を訪れたこともある。本文※4へ戻る
  5. 『防長風土注進案 13 山口宰判 下』。本文※5へ戻る
  6. 毛利元徳(もうり もとのり)。幕末の萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の養嗣子として敬親を支え、明治時代の初め、最後の山口藩主を務めた。本文※6へ戻る
  7. 内田伸『山口県の石造美術』。本文※7へ戻る
  8. 平瓦と丸瓦を交互に葺いた瓦葺。寺院建築の本式の葺き方。本文※8へ戻る

山口市歴史民俗資料館 大内氏遺跡指定60周年記念事業特別展
「大内氏のトビラ -山口をつくった西国大名-」

開催期間:10月12日(土曜日)から12月8日(日曜日)まで
室町時代に活躍した西国屈指の大名・大内氏を、信仰・文化・支配・外交・合戦という5つの「トビラ」から紹介。かつて凌雲寺にあったとされ、現在は玄済寺にある、大内義興の位牌として伝わるものや毘沙門天(びしゃもんてん)像も展示されます。

山口県文書館 資料小展示
「決戦! 船岡山 -大内義興 天下分け目の戦い-」

開催期間:11月1日(金曜日)から11月28日(木曜日)まで
大内義興は大軍を率い、亡命中の室町幕府第10代将軍足利義稙を擁して上洛。義稙を将軍に復帰させて3年後の1511(永正8)年、再起を図る前将軍方から攻撃され、いったん京都を追われます。しかし「船岡山の戦い」で勝利して京都を奪回、政権の安定に寄与しました。この戦いに関連する文書を展示します。

参考文献