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山口市阿東「嘉年城(嘉年勝山城)跡」の写真

山口市阿東「嘉年城(嘉年勝山城)跡」。文明3(1471)年秋、大内道頓・大内武治ら(東軍)と、陶氏・益田氏ら(西軍)が戦いを繰り広げた山城。萩市須佐・周南市を結ぶ国道315号と萩津和野線が交わる地の西にある

もう一つの応仁・文明の乱-大内政弘VS大内道頓-

応仁・文明の乱の鍵を握る存在だった西国一の大名・大内氏。しかし、その内部では深刻な危機が生じていました。
もう一つの応仁・文明の乱ともいえる大内氏分裂の危機を紹介します。
京都などを舞台に応仁元(1467)年から文明9(1477)年まで続いた「応仁・文明の乱」。11年にも及んだ原因の一つが、山口を拠点とした西国一の大名、大内(おおうち)氏の若き当主・政弘(まさひろ)の上洛でした。
そもそも応仁・文明の乱の発端は、室町幕府の管領(かんれい)(※1)家の一つ、畠山(はたけやま)氏の家督争いに、将軍・足利義政(あしかが よしまさ)が介入したこと。それに他の管領家や将軍家の家督争いも絡み、諸国の大名が山名宗全(やまな そうぜん)率いる“西軍”と、細川勝元(ほそかわ かつもと)率いる“東軍”に分かれて戦い、戦国時代の到来をもたらしました。
この大乱の当初は、幕府軍の地位を得た東軍が優勢でした。しかし大内政弘が中国・九州・四国8カ国約3万人の大軍を率いて西軍側として上洛すると(※2)、西軍は勢いを盛り返し、戦は長期化。このように一般的には、大内氏は山名氏と並ぶ西軍の主力として知られていますが、実は東軍の計略がひそかに進み、大内氏の内部でも西軍方・東軍方に分裂という深刻な危機に陥っていたのでした。

“東軍方”大内道頓の挙兵に立ち向かった“西軍方”大内政弘の母

大内氏の分裂は文明2(1470)年春、国元で留守を預かり、「大殿」と呼ばれていた政弘の伯父・大内道頓(どうとん)(※3)が、東軍の計略に応じ、赤間関(あかまがせき)(※4)で挙兵したことに始まります。5月には、摂津国(※5)で戦っていた政弘方から、有力な親族(※6)や有力家臣らが集団で戦線離脱し、道頓方へ。これには政弘が激怒。離脱せず西軍側に残留した家臣には「悪逆の族(やから)に同意せず、素晴らしいことだ」と感情をあらわにした手紙を書き送ったほどでした(※7)
挙兵した道頓は、国元にいた陶弘護(すえ ひろもり)らの有力家臣や石見国(いわみのくに)の領主ら多くの同意も取り付け、幕府からは大内氏当主として認められます。ところが12月、事態は一転。道頓は、政弘方へと再び転身した陶氏らに蜂起され(※8)、石見国(いわみのくに)(※9)へ逃れます。
このとき陶氏らが軍事行動を起こすに当たって指示を仰いだのが、政弘の母(※10)でした。政弘の母は、石見国の領主たちの中で最も有力な益田(ますだ)氏(※11)へ何度も手紙を送り、見返りを約束して味方に引き入れるなど政治的役割を担い、手腕を発揮。文明3(1471)年には、陶氏が益田氏と連携しながら、石見国との国境に近い嘉年城(かねじょう)(※12)を包囲した道頓方を撃退し、九州へ追い落とします(※13)。こうして政弘の母は息子の政弘が正当な当主であることを示すため、国元で陶氏らと共に、大内氏分裂の危機を乗り切っていきます。
一方、京都では文明9(1477)年になると幕府が政弘と和平交渉を始め、11月には政弘が軍勢を率いて帰国の途へ。これを機に、他の西軍の大名らも京都から引き揚げ、応仁・文明の乱はようやく終わりを迎えました。
11年にわたって領国から遠く離れた京都で大軍を維持した大内政弘。それは、それほど長期間、食料や軍事物資を確保し続けた大内氏の高い経済力をも物語ります。そして大内氏内部のもう一つの応仁・文明の乱も乗り越えた政弘。その後、分裂の危機を再び迎えぬよう、自身の家督の正当性を主張する系図を作成させるなど、領国支配の基盤固めに力を入れ(※14)、やがて政弘の長男が当主となった大内氏はさらなる栄華を迎えたのでした。
「大内政弘感状」(山口県文書館蔵 三浦家文書)の写真
「大内政弘感状」(山口県文書館蔵 三浦家文書)の写真

「大内政弘感状」(山口県文書館蔵 三浦家文書)。政弘が応仁・文明の乱に参戦するため上洛した際の戦いで、家臣の仁保弘有(にほひろあり)の働きをほめた応仁元(1467)年10月10日付の文書
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「大内政弘感状」(山口県文書館蔵 三浦家文書)。政弘が応仁・文明の乱に参戦するため上洛した際の戦いで、家臣の仁保弘有(にほひろあり)の働きをほめた応仁元(1467)年10月10日付の文書
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「大内道頓書状写」(山口県文書館蔵 萩藩閥閲録(ばつえつろく)差出原本周布吉兵衛(すふ きちべえ))の写真
「大内道頓書状写」(山口県文書館蔵 萩藩閥閲録(ばつえつろく)差出原本周布吉兵衛(すふ きちべえ))の写真

「大内道頓書状写」(山口県文書館蔵 萩藩閥閲録(ばつえつろく)差出原本周布吉兵衛(すふ きちべえ))。道頓が石見国の周布氏へ宛てた文明3(1471)年1月10日付の手紙。大内道頓が幕府(東軍)の命令で備後国(広島県東部)へ出陣しようとしたが、陶弘護らの「現形(げんぎょう)」つまり政弘方への転身が発覚し、備後へ進めなくなったことが書かれている
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「大内道頓書状写」(山口県文書館蔵 萩藩閥閲録(ばつえつろく)差出原本周布吉兵衛(すふ きちべえ))。道頓が石見国の周布氏へ宛てた文明3(1471)年1月10日付の手紙。大内道頓が幕府(東軍)の命令で備後国(広島県東部)へ出陣しようとしたが、陶弘護らの「現形(げんぎょう)」つまり政弘方への転身が発覚し、備後へ進めなくなったことが書かれている
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「常栄寺庭園(雪舟庭)」の写真
「常栄寺庭園(雪舟庭)」の写真

「常栄寺庭園(雪舟庭)」。政弘や父の教弘は文化人でもあり、画僧・雪舟(せっしゅう)を支援。雪舟は遣明船で山口から明へ渡った。帰国後、山口で水墨画などを制作。この庭は、雪舟が政弘の母の菩提寺「妙喜寺」に造営したと伝わる。妙喜寺の地は現在「常栄寺」
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「常栄寺庭園(雪舟庭)」。政弘や父の教弘は文化人でもあり、画僧・雪舟(せっしゅう)を支援。雪舟は遣明船で山口から明へ渡った。帰国後、山口で水墨画などを制作。この庭は、雪舟が政弘の母の菩提寺「妙喜寺」に造営したと伝わる。妙喜寺の地は現在「常栄寺」
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復元された「大内氏館池泉庭園」(山口市教育委員会提供)の写真
復元された「大内氏館池泉庭園」(山口市教育委員会提供)の写真

復元された「大内氏館池泉庭園」(山口市教育委員会提供)。大内氏館は現在の龍福寺の地にあった。応仁・文明の乱後の文明14(1482)年、陶弘護は大内氏館での宴の席で、石見国の吉見信頼(よしみ のぶより)に刺殺され、28歳で亡くなった
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復元された「大内氏館池泉庭園」(山口市教育委員会提供)。大内氏館は現在の龍福寺の地にあった。応仁・文明の乱後の文明14(1482)年、陶弘護は大内氏館での宴の席で、石見国の吉見信頼(よしみ のぶより)に刺殺され、28歳で亡くなった
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周南市長穂(ながほ)にある「龍文寺」境内、陶氏一族らの「陶氏墓所」の写真
周南市長穂(ながほ)にある「龍文寺」境内、陶氏一族らの「陶氏墓所」の写真

周南市長穂(ながほ)にある「龍文寺」境内、陶氏一族らの「陶氏墓所」。弘護の妻の父・益田兼堯の供養塔もある。龍文寺は陶弘護の祖父・盛政(もりまさ)が曹洞宗の高僧を招いて建立した名刹
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周南市長穂(ながほ)にある「龍文寺」境内、陶氏一族らの「陶氏墓所」。弘護の妻の父・益田兼堯の供養塔もある。龍文寺は陶弘護の祖父・盛政(もりまさ)が曹洞宗の高僧を招いて建立した名刹
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下松市鷲頭山(妙見山)「降松(くだまつ)神社 中宮」の蟇股(かえるまた)に用いられている大内菱の写真
下松市鷲頭山(妙見山)「降松(くだまつ)神社 中宮」の蟇股(かえるまた)に用いられている大内菱の写真

下松市鷲頭山(妙見山)「降松(くだまつ)神社 中宮」の蟇股(かえるまた)に用いられている大内菱。かつてその山には大内氏の氏神・妙見菩薩を祀(まつ)る妙見社があり、上宮・中宮・下宮をはじめ複数の社坊などがあった。文明10(1478)年10月、政弘の母は、九州へ出陣した政弘の勝利を願い、妙見社の宿院殿(現存しない)を修理した
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下松市鷲頭山(妙見山)「降松(くだまつ)神社 中宮」の蟇股(かえるまた)に用いられている大内菱。かつてその山には大内氏の氏神・妙見菩薩を祀(まつ)る妙見社があり、上宮・中宮・下宮をはじめ複数の社坊などがあった。文明10(1478)年10月、政弘の母は、九州へ出陣した政弘の勝利を願い、妙見社の宿院殿(現存しない)を修理した
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  1. 室町幕府将軍を補佐し、政務全体を管理した職の名。足利一門の斯波(しば)・細川・畠山の三家から任命された。 本文※1へ戻る
  2. 大内氏はそれ以前に、管領の細川氏とは、伊予国(現在の愛媛県)の河野(こうの)氏への軍事支援などをめぐって対立し、伊予国で戦っていた。 本文※2へ戻る
  3. 政弘の父・教弘(のりひろ)の兄。教弘とはかつて家督を争い、敗退している。 本文※3へ戻る
  4. 現在の下関市。 本文※4へ戻る
  5. 現在の大阪府。 本文※5へ戻る
  6. 大内武治(たけはる)。応仁・文明の乱後、政弘が作成した大内氏系図に、その名は記されなかった。 本文※6へ戻る
  7. 「大内政弘書状」久芳永清宛(文明2年)6月1日付書状。 本文※7へ戻る
  8. 陶氏が当初、道頓に味方する動きを示したのは「当場之計略」(当面の計略)だったという。 本文※8へ戻る
  9. 現在の島根県西部。 本文※9へ戻る
  10. 山名氏の生まれ。 本文※10へ戻る
  11. 益田兼堯(かねたか)の娘と陶弘護は結婚。互いの一族で婚姻関係を重ね、深い関係を築いた。 本文※11へ戻る
  12. 山口市阿東(あとう)嘉年、石見国津和野と山口を結ぶ石州(せきしゅう)街道の近くにある山城。 本文※12へ戻る
  13. 従来、道頓は文明4(1472)年に豊前国(ぶぜんのくに。現在の福岡県東部・大分県北部)で自殺したとされていた。しかし近年、道頓は豊前の大名に支援されて文明9(1477)年ごろまで生存していた可能性が指摘されている。 本文※13へ戻る
  14. 政弘は、大内氏の嫡子(義興。よしおき)に自身と同じ幼名の「亀童丸(きどうまる)」を名付け、幼時から次の当主であることを家臣らに示す行事も行い、その幼名や行事は次代へ受け継がれた。 本文※14へ戻る

山口市歴史民俗資料館 大内氏遺跡指定60周年記念事業特別展
「大内氏のトビラ -山口をつくった西国大名-」

開催期間:12月8日(日曜日)まで
大内氏を信仰・合戦などの面から紹介。政弘が氏寺「興隆寺」の法度(はっと)を定めた「大内政弘法度条々」、大内氏の祖先とされる琳聖(りんしょう)太子伝説と下松の関係を記した「多々良(たたら)氏譜牒」などを展示。なお、期間中、展示替えがあります。

山口県文書館 資料小展示
「決戦! 船岡山 -大内義興 天下分け目の戦い-」

開催期間:11月1日(金曜日)から11月28日(木曜日)まで
大内義興は大軍を率い、亡命中の室町幕府第10代将軍足利義稙を擁して上洛。義稙を将軍に復帰させて3年後の1511(永正8)年、再起を図る前将軍方から攻撃され、いったん京都を追われます。しかし「船岡山の戦い」で勝利して京都を奪回、政権の安定に寄与しました。この戦いに関連する文書を展示します。

山口県立美術館 特別展
「雪舟の仏画-初公開の《騎獅文殊(きしもんじゅ)・黄初平(こう しょへい)・張果老図(ちょうかろうず)》を中心に-」

開催期間:11月2日(土曜日)から12月8日(日曜日)まで
画僧・雪舟は山口を拠点に活躍する前、拙宗(せっしゅう)と名乗っていました。その拙宗時代の中でも特に初期の作品と考えられる、文殊菩薩図と黄初平・張果老という仙人図による三幅対の大作を初公開します。

参考文献