山口市阿東「嘉年城(嘉年勝山城)跡」。文明3(1471)年秋、大内道頓・大内武治ら(東軍)と、陶氏・益田氏ら(西軍)が戦いを繰り広げた山城。萩市須佐・周南市を結ぶ国道315号と萩津和野線が交わる地の西にある
「大内政弘感状」(山口県文書館蔵 三浦家文書)。政弘が応仁・文明の乱に参戦するため上洛した際の戦いで、家臣の仁保弘有(にほひろあり)の働きをほめた応仁元(1467)年10月10日付の文書
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「大内政弘感状」(山口県文書館蔵 三浦家文書)。政弘が応仁・文明の乱に参戦するため上洛した際の戦いで、家臣の仁保弘有(にほひろあり)の働きをほめた応仁元(1467)年10月10日付の文書
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「大内道頓書状写」(山口県文書館蔵 萩藩閥閲録(ばつえつろく)差出原本周布吉兵衛(すふ きちべえ))。道頓が石見国の周布氏へ宛てた文明3(1471)年1月10日付の手紙。大内道頓が幕府(東軍)の命令で備後国(広島県東部)へ出陣しようとしたが、陶弘護らの「現形(げんぎょう)」つまり政弘方への転身が発覚し、備後へ進めなくなったことが書かれている
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「大内道頓書状写」(山口県文書館蔵 萩藩閥閲録(ばつえつろく)差出原本周布吉兵衛(すふ きちべえ))。道頓が石見国の周布氏へ宛てた文明3(1471)年1月10日付の手紙。大内道頓が幕府(東軍)の命令で備後国(広島県東部)へ出陣しようとしたが、陶弘護らの「現形(げんぎょう)」つまり政弘方への転身が発覚し、備後へ進めなくなったことが書かれている
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周南市長穂(ながほ)にある「龍文寺」境内、陶氏一族らの「陶氏墓所」。弘護の妻の父・益田兼堯の供養塔もある。龍文寺は陶弘護の祖父・盛政(もりまさ)が曹洞宗の高僧を招いて建立した名刹
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周南市長穂(ながほ)にある「龍文寺」境内、陶氏一族らの「陶氏墓所」。弘護の妻の父・益田兼堯の供養塔もある。龍文寺は陶弘護の祖父・盛政(もりまさ)が曹洞宗の高僧を招いて建立した名刹
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下松市鷲頭山(妙見山)「降松(くだまつ)神社 中宮」の蟇股(かえるまた)に用いられている大内菱。かつてその山には大内氏の氏神・妙見菩薩を祀(まつ)る妙見社があり、上宮・中宮・下宮をはじめ複数の社坊などがあった。文明10(1478)年10月、政弘の母は、九州へ出陣した政弘の勝利を願い、妙見社の宿院殿(現存しない)を修理した
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下松市鷲頭山(妙見山)「降松(くだまつ)神社 中宮」の蟇股(かえるまた)に用いられている大内菱。かつてその山には大内氏の氏神・妙見菩薩を祀(まつ)る妙見社があり、上宮・中宮・下宮をはじめ複数の社坊などがあった。文明10(1478)年10月、政弘の母は、九州へ出陣した政弘の勝利を願い、妙見社の宿院殿(現存しない)を修理した
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開催期間:12月8日(日曜日)まで
大内氏を信仰・合戦などの面から紹介。政弘が氏寺「興隆寺」の法度(はっと)を定めた「大内政弘法度条々」、大内氏の祖先とされる琳聖(りんしょう)太子伝説と下松の関係を記した「多々良(たたら)氏譜牒」などを展示。なお、期間中、展示替えがあります。
開催期間:11月1日(金曜日)から11月28日(木曜日)まで
大内義興は大軍を率い、亡命中の室町幕府第10代将軍足利義稙を擁して上洛。義稙を将軍に復帰させて3年後の1511(永正8)年、再起を図る前将軍方から攻撃され、いったん京都を追われます。しかし「船岡山の戦い」で勝利して京都を奪回、政権の安定に寄与しました。この戦いに関連する文書を展示します。
開催期間:11月2日(土曜日)から12月8日(日曜日)まで
画僧・雪舟は山口を拠点に活躍する前、拙宗(せっしゅう)と名乗っていました。その拙宗時代の中でも特に初期の作品と考えられる、文殊菩薩図と黄初平・張果老という仙人図による三幅対の大作を初公開します。
【大内氏関係】