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「芸州厳島御一戦之図」(部分)(毛利家文庫 山口県文書館蔵)の写真

「芸州厳島御一戦之図」(部分)(毛利家文庫 山口県文書館蔵)。弥山(みせん)の頂上より右へ少し下ったところに「リウガ馬場(龍ガ馬場。龍ノ岩)とあり、「南」の字の横に隆兼父子の最期が記されている

厳島の戦い-大内氏重臣・弘中隆兼 最後の手紙-

厳島の戦いは、毛利氏が中国地方の大半を支配する戦国大名へと飛躍するきっかけとなった、大内氏重臣・陶氏との戦い。そのとき陶方として戦って亡くなった弘中隆兼の、妻への最後の手紙を紹介します。
西国一の戦国大名・大内(おおうち)氏(※1)の重臣・陶晴賢(すえ はるかた)と、毛利元就(もうり もとなり)(※2)が戦った、厳島(いつくしま)の戦い。その戦いに出陣した勇将・弘中隆兼(ひろなか たかかね)の遺書ともいえる妻宛ての手紙が近年再発見され(※3)、注目が高まっています。
弘中氏は大内氏の重臣で、岩国を本拠としていました(※4)。1500年代半ば、弘中隆兼は大内義隆(よしたか)(※5)から安芸国(あきのくに)の守護代(※6)や備後国(びんごのくに)の管轄を任され、義隆の配下にいた毛利元就と共に安芸国の武士らを指揮し、尼子(あまご)(※7)方と戦って活躍。元就とは戦友といえる関係でした。
天文20(1551)年、大内義隆が重臣らのクーデターによって自害し、大内義長(よしなが)(※8)が新たな主君となります。しかし3年後、クーデターでは連携していた大内氏重臣・陶晴賢と、毛利元就は断交。晴賢は元就との決戦の地を厳島とし、弘治元(1555)年9月21日、渡海。弘中隆兼は陶方として厳島へ渡りました。

こみあげてくる無念さと、妻や娘へのあふれる思い

隆兼の妻への手紙は決戦直前の29日付で、次のようなことがつづられています。「変わったことはないので安心するように。陣中の習い(※9)でこの手紙を書いているのだから驚かないでほしい。(息子の)源太郎も厳島に渡った(※10)」「(娘の)梅のことがあるので手紙を書いているのです」。続けて追伸として「梅のことをあなたに任せます(※11)。でも、このように言うからといって驚かないように。先にも書いたように、陣中の習いとして言っているのです」と繰り返し、手紙を読んで不安を募らせるだろう妻を細やかに思いやります。
そして「この度の戦いは簡単だと陶方の皆は思っているらしい。陶晴賢へ陶方の水軍や晴賢の家臣らが主張して、このようなことになったことが口惜(くちお)しい(※12)」と無念さがこみあげたように筆を一気に走らせ、こう結びます。「琥珀院(こはくいん)(※13)に長持(※14)を置いています。万一のときはそれを取り寄せ、太刀も琥珀院にあるので取り寄せてください」。
後の史料に「隆兼は『厳島での合戦は難しい。必要ない』と反対したが、晴賢は『臆病な意見だ』と取り合わず、その夜のうちに水軍と共に渡海した」と記された毛利氏家臣の覚書があります(※15)。また、兵力は従来、陶方が圧倒的に優勢だったとされてきましたが、近年の研究で、他の大内氏重臣らは出陣していなかったことが判明。さらに、このころ陶氏の軍勢は安芸国西部の山間部で戦っていたことも分かりました。つまり、陶氏は兵力を分散させたまま、覚書の通り、隆兼の反対にもかかわらず渡海を強行していたのでした。手紙からは、無謀な戦略がとられたことへの、元就をよく知る隆兼だからこその無念さ、そして死を覚悟した中での家族への愛情がひしひしと伝わってきます。
10月1日未明、晴賢は毛利方に本陣を攻撃され、敗走します。隆兼はそれを見て、息子の源太郎と家臣らを率いて「龍ノ岩」と呼ばれる標高509メートルの断崖絶壁に登り、3日間、毛利方に包囲されながら立てこもります。
そのころ山口にいた隆兼の主君・大内義長は10月3日、隆兼の妻を気遣い、戦況が分からぬまま手紙を書きます。「厳島方面のこと。心配で気が重いことでしょう。私の心中も同じです。そのうちに良い知らせがあるでしょう」…。しかしその日、隆兼父子は共に切腹し、世を去っていたのでした。
隆兼が案じていた娘はその後、豊前国(ぶぜんのくに)(※16)の武士に嫁ぎます。そのとき父や義長からの手紙も携えて嫁いだものと思われます。手紙は婚家などで守られ、400年以上の時を経て、戦いの真実と家族への思いを今、明かしてくれます。
「弘中隆兼書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)(部分)の写真
「弘中隆兼書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)(部分)の写真

「弘中隆兼書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)(部分)。厳島の戦い直前の弘治元(1555)年9月29日付、隆兼から妻への最後の手紙。本文の行と行の間に、追伸がぎっしりと書き込まれている
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「弘中隆兼書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)(部分)。厳島の戦い直前の弘治元(1555)年9月29日付、隆兼から妻への最後の手紙。本文の行と行の間に、追伸がぎっしりと書き込まれている
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「大内義長書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)の写真
「大内義長書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)の写真

「大内義長書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)。弘治元(1555)年10月3日付。隆兼の妻を気遣い、大内義長が送った手紙。その日、隆兼父子は厳島で切腹していた
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「大内義長書状」(西郷文書 個人蔵 山口市歴史民俗資料館提供)。弘治元(1555)年10月3日付。隆兼の妻を気遣い、大内義長が送った手紙。その日、隆兼父子は厳島で切腹していた
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岩国市通津(つづ)地区、専徳寺にある「弘中隆兼の墓」の写真
岩国市通津(つづ)地区、専徳寺にある「弘中隆兼の墓」の写真

岩国市通津(つづ)地区、専徳寺にある「弘中隆兼の墓」。今津地区の大応寺にあったが昭和16(1941)年に移された。寺伝によれば、隆兼と共に切腹した息子の遺児・了善(一説には隆兼の末子)が、高森地区の正蓮寺を創建。その三男(善超)が寛永元(1624)年に専徳寺を創建したという。現在も住職は弘中家
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岩国市通津(つづ)地区、専徳寺にある「弘中隆兼の墓」。今津地区の大応寺にあったが昭和16(1941)年に移された。寺伝によれば、隆兼と共に切腹した息子の遺児・了善(一説には隆兼の末子)が、高森地区の正蓮寺を創建。その三男(善超)が寛永元(1624)年に専徳寺を創建したという。現在も住職は弘中家
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岩国市今津地区にある「白崎八幡宮」の写真
岩国市今津地区にある「白崎八幡宮」の写真

岩国市今津地区にある「白崎八幡宮」。弘中氏が代々、宮司を世襲した。近くを流れる今津川の南に、弘中氏の居館跡と考えられている「中津居館跡」がある
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岩国市今津地区にある「白崎八幡宮」。弘中氏が代々、宮司を世襲した。近くを流れる今津川の南に、弘中氏の居館跡と考えられている「中津居館跡」がある
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岩国市錦見にあった弘中氏の居城「亀尾城」跡の写真
岩国市錦見にあった弘中氏の居城「亀尾城」跡の写真

岩国市錦見にあった弘中氏の居城「亀尾城」跡。厳島の戦いの際、隆兼の弟と伝わる民部丞(みんぶのじょう)が留守を預かっていた。その後、民部丞は毛利氏の家臣に。城の西、現在の普済寺の隣に琥珀院があったという
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岩国市錦見にあった弘中氏の居城「亀尾城」跡。厳島の戦いの際、隆兼の弟と伝わる民部丞(みんぶのじょう)が留守を預かっていた。その後、民部丞は毛利氏の家臣に。城の西、現在の普済寺の隣に琥珀院があったという
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山口の「俊龍寺」の写真
山口の「俊龍寺」の写真

山口の「俊龍寺」。大内教弘(のりひろ)が妻のために寛正元(1460)年に創建。隆兼は天文年間、この寺院の僧を深く信仰し、寺を増築したという。隆兼の供養塔があり、大正元(1912)年建立の碑に弘中三河守隆兼の名が刻まれている
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山口の「俊龍寺」。大内教弘(のりひろ)が妻のために寛正元(1460)年に創建。隆兼は天文年間、この寺院の僧を深く信仰し、寺を増築したという。隆兼の供養塔があり、大正元(1912)年建立の碑に弘中三河守隆兼の名が刻まれている
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  1. 山口を拠点にした西国一の大名。 本文※1へ戻る
  2. 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の吉田郡山(こおりやま)を拠点とした武将、戦国大名。 本文※2へ戻る
  3. 「西郷文書」。『豊前市史 文書資料』などに収録されていたが、近年、手紙の内容が詳しく検討され、『宮島学センター年報』第1号や、『山口県史』通史編 中世などで紹介。 本文※3へ戻る
  4. 岩国市で近年発掘調査が行われた「中津居館跡」が、弘中氏の居館跡と推定されている。おもしろ山口学「岩国にある県内屈指の中世の館跡と、大量の中国の埋納銭」参照 本文※4へ戻る
  5. 大内義隆は、歴代当主の中で最大の勢力範囲を誇り、室町幕府将軍を除き、武家としては破格の高い位階「従二位(じゅにい)」を朝廷から賜った。 本文※5へ戻る
  6. 守護の職務を代行する人。 本文※6へ戻る
  7. 出雲国(いずものくに。現在の島根県東部)を拠点とした戦国大名。 本文※7へ戻る
  8. 豊後国(ぶんごのくに。現在の大分県)を拠点とした戦国大名・大友宗麟(おおとも そうりん)の弟。母は大内義興の娘とされるが、異説もある。 本文※8へ戻る
  9. 習慣。 本文※9へ戻る
  10. この一文に続き、一族や上層家臣の清水寺(きよみずでら)・無量寺(むりょうじ)・弘中対馬守(つしまのかみ)・諸卜軒(しょぼくけん)にも手紙を送った、とある。なお、大内氏滅亡後、大友家に庇護されていた大内輝弘(てるひろ)が大内氏再興を目指して山口に進攻し、毛利氏と戦った際、隆兼の遺臣、清水寺尊恕(そんじょ)や弘中弾正忠は輝弘に味方した。おもしろ山口学「大内輝弘『大内氏再興』の夢 第1回『山口の正統の王』」「大内輝弘『大内氏再興』の夢 第2回 輝弘の夢が残したもの」参照。 本文※10へ戻る
  11. 家督を娘に相続させるよう伝えたもの。 本文※11へ戻る
  12. 陶方の水軍は、厳島の権益を毛利方に奪われ、それを奪回したいため、渡海して戦うことを主張。自分たちの利益を優先させたい水軍らの軽率な意見の採用が、隆兼には口惜しかった、と考えられる。 本文※12へ戻る
  13. 隆兼の居城「亀尾城」近くにあった寺院。隣接して無量寺(現在の普済寺)があった。 本文※13へ戻る
  14. 長方形の木箱。ここでは、家伝の書類などが入った長持と思われる。 本文※14へ戻る
  15. 元就の重臣・桂元澄(かつら もとずみ)の六男、元盛(もともり)が元和8(1622)年に書いた「桂岌圓(きゅうえん)覚書」。そこには「隆兼は渡海には反対だったが、ここまで晴賢と共に戦いながら、ここで分かれ分かれとなるのは男として行うべき道に反する、と考え、死を覚悟して渡った」と記されている。 本文※15へ戻る
  16. 現在の福岡県東部・大分県北部。 本文※16へ戻る

山口市歴史民俗資料館 大内氏遺跡指定60周年記念事業特別展
「大内氏のトビラ -山口をつくった西国大名-」

開催期間: 12月8日(日曜日)まで
大内氏を信仰・合戦などの面から紹介。厳島の戦いの際、弘中隆兼が岩国にいる妻に後のことを託した手紙や、大内義長が隆兼の妻を気遣って送った手紙などを展示中です。

山口県文書館 資料小展示
「決戦!船岡山 -大内義興 天下分け目の戦い-」

開催期間: 11月28日(木曜日)まで
大内義興は大軍を率い、亡命中の室町幕府第10代将軍足利義稙を擁して上洛。義稙を将軍に復帰させて3年後の1511(永正8)年、再起を図る前将軍方から攻撃され、いったん京都を追われます。しかし「船岡山の戦い」で勝利して京都を奪回、政権の安定に寄与しました。この戦いに関連する文書を展示します。

参考文献