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「枢密顧問官時代の上山満之進」写真(防府市蔵)

「枢密顧問官時代の上山満之進」写真(防府市蔵)

上山満之進と台湾と防府「三哲文庫」-人間の真価は逆境において発揮される-

長州閥から距離を置いた政治家の道を歩いた“信念の人”上山満之進。今年は生誕150年の節目の年でした。ふるさと防府に図書館を遺し、台湾総督辞任時に制作を依頼した陳澄波の幻の作品“再発見”でも注目が高まっている満之進を紹介します。
上山満之進(かみやま みつのしん)は明治2(1869)年、江泊(えどまり)村(現在の防府市)に生まれました。12歳のとき、父が死去。家計は苦しく、家族を支えながら逆境に負けまいと勉強に励みます。山口高等中学校(※1)のとき、新聞に士族の特権を批判する投書を行い、また、差別撤廃に向けての論文を発表。平等・反権力の意識が強い若者でした。
卒業後は防長教育会(※2)の奨学金で帝国大学法科大学(※3)への進学をかなえます。在学中、吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生だった品川弥二郎(しながわ やじろう)(※4)を訪問。日記には「人ノ悪ヲ見テコレヲ許セズ」「八方美人(中略)コレ志士ノモットモ忌ムトコロ」など、初めて会った時の弥二郎の言葉を書き留めていて、もともと一徹な面があった満之進は強い感銘を受けたようです。
卒業後は官僚の道へ。その際には「失敗ごとに新しき希望を発見して進む 業必ず成る」と自戒の言葉を半紙にしたためています。やがて農商務省山林局長等(※5)を経て熊本県知事に。「あくまで公平を貫く」と一党一派に偏らない姿勢を表明します。ところが中央政変のあおりを受け、わずか5カ月で休職することに。10カ月の浪人生活を経て農商務省に次官として復帰しますが、米騒動に直面。小作農民の救済に信念を持って取り組みますが、意見は採用されず、首相退陣とともに、責任をとって辞職しました(※6)

台湾を愛した満之進。陳澄波に依頼した絵が近年“再発見”で話題に

その後、貴族院の勅任議員となった満之進。長州閥の一員となれば大臣となれたかもしれませんが、あえて長州閥からも距離を置いた一匹狼でした。それでも大正15(1926)年、首相(※7)から推薦され、台湾総督となります。「一視同仁(全ての人を差別なく愛する)」を基本姿勢に、台湾の人々の信仰を尊重。台湾銀行の救済などに奮闘します。しかし2年後、辞任することに(※8)。官民有志から惜別記念として13,000円が贈られると、12,000円を台湾の原住民族の研究費として台北帝国大学(※9)に寄付。残りのお金で台湾の画家・陳澄波(チェン・チェンボー、ちん とうは)(※10)に絵の制作を依頼。台湾の風景が描かれた絵を帰国後、自邸に掲げました。
貴族院に復帰して3年後の昭和7(1932)年、「五・一五事件」(※11)が起きます。軍部を恐れた政治家たちが青年将校らの批判をためらう中、満之進は貴族院本会議で軍の横暴などを敢然と批判。勇気ある発言は新聞に「政党は私利を離れ、軍人は其の分を守れ」という言葉で掲載され、一般の人々からたたえる声が上がったといいます。
また、満之進はふるさとの文化振興にも貢献しました(※12)。昭和10(1935)年、自分の死後は遺産を図書館の建設に使ってほしい、図書館は「三哲文庫」と名付けてほしい、と防府町(現在の防府市)に伝えます。三哲とは、満之進が尊敬した松陰・弥二郎・乃木希典(のぎ まれすけ)(※13)。満之進の文に「三先生は逆境の人であった。人間の真価は逆境に於(おい)て発揮せられる」とあり、そうした信念を文庫の名に託したかったのでしょう。
しかし、建設計画は物価高騰で中止。そのとき病床にあった満之進は東京の私邸を売却して費用にあてようと決意しますが、その矢先、昭和13(1938)年、70歳で亡くなります。満之進の志は遺族・親族が継ぎ、3年後、三哲文庫は開館します(※14)
戦後、三哲文庫の名は変わり、建物も解体。いつしか満之進の名は忘れられがちとなります。一方で満之進の生き方に感銘する人が次第に増え、人物伝の発行(※15)などを機に再評価の機運が高まるようになりました。その過程で、かつて市に寄贈され、今、台湾の人々が誇る画家となっている亡き陳澄波の絵が再発見され、台湾でも大きなニュースになりました。逆境にあっても信念を持って進み続けた満之進に今、光が当たり始めています。
「昭和15(1940)年11月竣工(しゅんこう)直後の三哲文庫」写真(防府市蔵)
「昭和15(1940)年11月竣工(しゅんこう)直後の三哲文庫」写真(防府市蔵)

「昭和15(1940)年11月竣工(しゅんこう)直後の三哲文庫」写真(防府市蔵)
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「晩年の上山満之進」写真(防府市蔵)
「晩年の上山満之進」写真(防府市蔵)

「晩年の上山満之進」写真(防府市蔵)。昭和11(1936)年、帰郷中、旅館で撮影されたもの。生前最後の写真
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山口県立防府商工高等学校の北、かつて三哲文庫があった公園にある「枢密顧問官上山君記念碑」の写真
山口県立防府商工高等学校の北、かつて三哲文庫があった公園にある「枢密顧問官上山君記念碑」の写真

山口県立防府商工高等学校の北、かつて三哲文庫があった公園にある「枢密顧問官上山君記念碑」。三哲文庫は昭和21(1946)年、防府図書館に改称。昭和56(1981)年、桑山の西へ移転(現在の防府市文化財郷土資料館)。さらに平成18(2006)年、ルルサス防府3階へ移転した
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山口県立防府商工高等学校の北、かつて三哲文庫があった公園にある「枢密顧問官上山君記念碑」。三哲文庫は昭和21(1946)年、防府図書館に改称。昭和56(1981)年、桑山の西へ移転(現在の防府市文化財郷土資料館)。さらに平成18(2006)年、ルルサス防府3階へ移転した
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防府市立防府図書館「上山満之進翁と三哲文庫」常設展示室の写真
防府市立防府図書館「上山満之進翁と三哲文庫」常設展示室の写真

防府市立防府図書館「上山満之進翁と三哲文庫」常設展示室。満之進の書や、三哲文庫設計図予算、三哲文庫の表札、陳澄波「東台湾臨海道路」の写真などを展示している
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防府市立防府図書館「上山満之進翁と三哲文庫」常設展示室。満之進の書や、三哲文庫設計図予算、三哲文庫の表札、陳澄波「東台湾臨海道路」の写真などを展示している
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昭和10(1935)年、台北帝国大学から刊行された『台湾高砂族系統所属の研究』第1冊 本篇と第2冊 資料篇(防府市立防府図書館蔵)の写真
昭和10(1935)年、台北帝国大学から刊行された『台湾高砂族系統所属の研究』第1冊 本篇と第2冊 資料篇(防府市立防府図書館蔵)の写真

昭和10(1935)年、台北帝国大学から刊行された『台湾高砂族系統所属の研究』第1冊 本篇と第2冊 資料篇(防府市立防府図書館蔵)。満之進が台湾総督辞任時に贈られた餞別(せんべつ)を大学に寄付し、調査・刊行された。文化人類学研究者で評価の高い名著
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昭和10(1935)年、台北帝国大学から刊行された『台湾高砂族系統所属の研究』第1冊 本篇と第2冊 資料篇(防府市立防府図書館蔵)。満之進が台湾総督辞任時に贈られた餞別(せんべつ)を大学に寄付し、調査・刊行された。文化人類学研究者で評価の高い名著
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陳澄波「東台湾臨海道路」(防府市蔵)の写真
陳澄波「東台湾臨海道路」(防府市蔵)の写真

陳澄波「東台湾臨海道路」(防府市蔵)。満之進が陳澄波に制作を依頼したもの。満之進の死後、三哲文庫に寄贈。2019年に亡くなられた児玉識氏が満之進の伝記を執筆する過程で再発見された
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陳澄波「東台湾臨海道路」(防府市蔵)。満之進が陳澄波に制作を依頼したもの。満之進の死後、三哲文庫に寄贈。2019年に亡くなられた児玉識氏が満之進の伝記を執筆する過程で再発見された
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  1. 現在の山口大学経済学部。 本文※1へ戻る
  2. 明治17(1884)年、毛利(もうり)家や多くの人々の寄付金によって創立された民間奨学団体。 本文※2へ戻る
  3. 現在の東京大学法学部。 本文※3へ戻る
  4. 明治維新後、渡欧して、農民や小商工業者保護の立場から産業組合を研究。帰国後、大日本農会などの産業団体の結成に尽力。内務大臣などを務めたが、大選挙干渉を行い、辞任。幕末維新で亡くなった志士らをしのび、京都に尊攘堂を建てたことでも知られる。 本文※4へ戻る
  5. 青森県参事官、山口県参事官、法制局参事官なども務めた。満之進は知識欲が旺盛で郷土への関心も強く、法制局時代、後輩で、後に民俗学者となる柳田國男(やなぎた くにお)に影響を与えた。 本文※5へ戻る
  6. 当時の首相は、山口県出身の寺内正毅(てらうち まさたけ)。 本文※6へ戻る
  7. 当時の首相は、島根県出身の若槻礼次郎(わかつき れいじろう)。 本文※7へ戻る
  8. 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう)が台湾訪問中に起きた台中不敬事件の責任をとって辞任。 本文※8へ戻る
  9. 現在の国立台湾大学。 本文※9へ戻る
  10. 台湾近代美術の代表画家の一人。 本文※10へ戻る
  11. 海軍の急進派の青年将校らが総理大臣官邸に乱入。犬養毅(いぬかい つよし)首相を殺害した。 本文※11へ戻る
  12. 防長教育会の活動に尽力したほか、毛利敬親(たかちか)・元徳(もとのり)の両公伝編纂(へんさん)所の所長を務め、郷土史研究の出版なども助成。備中高松城址(じょうし)の保存運動にも関わった。おもしろ山口学「秀吉の水攻めで自刃した備中高松城の城主と光市の高松山清鏡寺・正義霊社」参照 本文※12へ戻る
  13. 幕末、長府藩(現在の下関市長府)士の家に生まれ、松陰の叔父などに学んだ。明治維新後、軍人となり、日露戦争では第3軍司令官として出征。二人の息子や多くの兵を失った。明治天皇から信頼され、皇族の子弟の教育に尽力した。 本文※13へ戻る
  14. 第二次世界大戦後、防府市立防府図書館と改称。 本文※14へ戻る
  15. 児玉識『上山満之進の思想と行動』2016(防府市立防府図書館発行)。 本文※15へ戻る

参考文献