狛犬といえば、口を開いたもの・閉じたものが一対になった「阿・吽(あ・うん)」の形式が多いことは、よく知られています。口を開いた阿形の頭上には角がなく、それは“獅子”。口を閉じた吽形は、角がある場合もあり
(※6)、厳密な意味での“狛犬”。大坂の狛犬は、こうした“獅子・狛犬”で一対の形式が一般的です
(※7)。
萩型狛犬も獅子・狛犬の形式ですが、大坂の狛犬にはない特徴があります。例えば、一般的な狛犬は参拝者を見つめる姿勢ですが、萩型狛犬はなぜか参拝者の頭上、虚空を見つめています。また、時には阿形の獅子の口の中に玉があり(口中玉)、しかもその玉がゴロゴロと動く場合もあり、一方で吽形の狛犬は右前足でテニスボール大の玉を踏んでいるものが多く、「口中玉の獅子と、踏み玉の狛犬で一対」というのが主なことも特徴です
(※8)。ちなみに口の中にどうやって玉を入れたのかというと、そうではなく、獅子を一つの石から造る際、なんと、口の中から削り出したのだとか
(※9)。石工の腕に感嘆の声を上げずにはおれません。さらに台座に、牡丹(ぼたん)や松竹梅などの浮き彫りがあることも特徴の一つ。石材が主に萩産の黒い、細工しやすい安山岩であることも、石工の腕を振るわせたのでしょう。
萩型狛犬は、驚いたことに、遠く離れた京都の北野天満宮や福岡県の太宰府天満宮などにも寄進されています
(※10)。特に北野天満宮には、文久2(1862)年寄進の、台座も含めて4メートル以上の巨大な萩型狛犬があります。吽形の狛犬の右前足の下には、見事な透かし彫りの玉。基壇(きだん)には京都・大坂・長州の世話方、萩藩及び関西の商人を含む大勢の名がズラリと並び、牡丹や松竹梅の精緻な浮き彫りも。さらに飾り台には「粛々廟前 双獅護衛」で始まる詩文が刻まれています。文久2(1862)年といえば、まさに萩藩が尊王攘夷派のリーダーとして京都で存在感を高めていたころです。
その北野天満宮の萩型狛犬は、司馬遼太郎(しば りょうたろう)の短編小説『薩摩藩浄福寺党』に登場します。そこには、寄進された萩型狛犬が「京のあたらしい名物」になり、「この石獅子をおがむために、長州藩没落後もここに参詣する市民の数がおとろえない」と書かれています。
萩藩の幕末の志士たちは天満宮、つまり天神様を盛んに信仰していました。「粛々廟前 双獅護衛」の言葉からは、巨大な獅子・狛犬に“我らが朝廷をお守りします”という気概を込め、萩からはるばる船で運び、エイヤっと京都の天神様に寄進した様子が浮かんできます。