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「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)の写真

「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)。向って左から実兄、省三、省三の妻ヘードビッヒ、省三の実弟、義弟。明治10(1877)年撮影

“日本の毛織物工業の父”井上省三

厚狭毛利家の家臣で、明治時代にいち早く海外で製絨技術を学んで持ち帰った、
”日本の毛織物工業の父”井上省三を紹介します。
海外に留学し、文明開化期の日本を支えた長州人は少なくなく、そうした人物の一人に”日本の毛織物工業の父”井上省三(いのうえ せいぞう)がいます。省三は弘化2(1845)年、宇津井村(現在の下関市)の大庄屋・伯野(はくの)家の次男として生まれました。幼くして厚狭毛利(あさもうり)家(※1)の家臣、郡(こおり)村(現在の山陽小野田市)の井上家の養子に。郷校「朝陽館」で学び、幕長戦争で活躍。その後入学した山口兵学校で洋学に強い関心を持つようになります。
明治2(1869)年、山口藩諸隊の脱隊騒動(※2)が起き、生涯の恩人となる木戸孝允(きど たかよし)と出会います。このとき省三は鎮圧側で奮戦。その才を、明治政府高官となっていた木戸に認められます。騒動の収束後、「上京してドイツ学を学びたい」と志を明かすと、木戸が藩費での東京留学を取り計らってくれ、明治3(1870)年5月、木戸と共に東京へ。さらには半年後、伏見満宮(ふしみみつのみや)(※3)に随行し、欧州へ留学することに。そして明治4(1871)年、ドイツに到着。ドイツには、郷里が近い埴生(はぶ)村(現在の山陽小野田市)出身の青木周蔵(あおき しゅうぞう)(※4)が留学中で、友情を深めていきます。
そもそも省三の留学の目的は、兵学でした。しかし欧米の現状に接し「富国強兵を進めるには、人々に産業を授け、製造、輸出し、貿易すること」、そのためには殖産興業に関する技術を学びたいと考えを改めるようになります。岩倉視察団(※5)の副使として欧州にやってきた木戸に、転学したいと相談。その後、木戸からは法律を学ぶよう勧められますが志を貫き、ドイツの織物工場(※6)の一職工となって製絨(せいじゅう)技術(※7)を学び始めます。日本では当時、陸海軍や警察の服制が整えられ、制服に用いるラシャ(※8)などの毛織物の輸入が急増。省三はその国産化を目指したのでした。工場で熱心に働き、夜は睡眠時間を削って勉強。そうした熱意と努力が認められ、明治8(1875)年8月、製絨技術習得の証書を与えられます。
2カ月後帰国し、翌年、木戸の世話で内務省へ出仕します。やがて官営で製絨所が設立されることとなり、省三はその準備を命じられ、再びドイツへ。機械を購入し、ドイツ人技師を雇い入れ、さらにはドイツ人女性ヘードビッヒ(※9)と結婚し、伴って帰国(※10)。明治12(1879)年、東京に日本初の毛織物工場「千住製絨所」を開業させ、初代所長となって日本の毛織物工業の礎を築いていきます。

時を超え、国を越え、つながり続けた “父”との絆

ヘードビッヒの弟の手記(※11)によれば、ヘードビッヒは快活な人で、ドイツ時代の省三も働いているとき以外はいつも陽気で、女性たちの間で人気者だったといいます。そんな2人は東京で暮らし始めてからも、腕を組んで歩くほど仲むつまじかったようです。
ところが不幸に襲われます。明治16(1883)年、火災で工場の主要設備のほとんどを焼失したのです。省三は復興に向けて奮闘。2年で復旧させますが、過労がたたり、その翌年、志半ばで亡くなります。開業してわずか7年のことでした。夫に先立たれたヘードビッヒは、やむなく一人娘のハナを連れて帰国。ヘードビッヒと省三の親族は手紙を交わし続けますが、第一次世界大戦後、ヘードビッヒとハナの消息は途絶えます。
省三の功績は忘れられることなく、明治21(1888)年、有志らによって記念碑が千住製絨所の構内に建立されます。その題字は外務次官となっていた青木周蔵、文章は省三と共に伏見満宮に随行し、東京農林学校教授となっていた松野礀(まつの はざま)(※12)が担当(※13)。二人とも省三と同様、ドイツ人女性と結婚した親友たちでした。そしてヘードビッヒとハナ(※14)の消息についても省三の親族によって探され続け、昭和40(1965)年、ついにハナの子どもたちの所在が判明。その後、彼らの来日が実現します。
長州に生まれ、日本の毛織物工業の父となった省三。没後130余年を経て、今も日本羊毛産業協会による法要が、省三が眠る熱海(※15)で毎年行われ続けています。
「東京千住製絨所長・井上省三写真」(山口県文書館蔵)の写真
「東京千住製絨所長・井上省三写真」(山口県文書館蔵)の写真

「東京千住製絨所長・井上省三写真」(山口県文書館蔵)
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「東京千住製絨所長・井上省三写真」(山口県文書館蔵)
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「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)の写真
「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)の写真

「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)。明治17(1884)年の撮影。幼い女の子が省三・ヘードビッヒ夫妻の一人娘ハナ
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「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)。明治17(1884)年の撮影。幼い女の子が省三・ヘードビッヒ夫妻の一人娘ハナ
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「井上省三胸像除幕式記念写真」(山口県文書館蔵)の写真
「井上省三胸像除幕式記念写真」(山口県文書館蔵)の写真

「井上省三胸像除幕式記念写真」(山口県文書館蔵)。昭和11(1936)年、省三没後50年を記念し、千住製絨所構内に胸像が建設され、2年後には井上省三記念事業委員会によって『井上省三伝』が刊行された
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「井上省三胸像除幕式記念写真」(山口県文書館蔵)。昭和11(1936)年、省三没後50年を記念し、千住製絨所構内に胸像が建設され、2年後には井上省三記念事業委員会によって『井上省三伝』が刊行された
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「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)の写真
「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)の写真

「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)。写真の左端に省三の胸像。広大な敷地にあった千住製絨所は昭和20(1945)年に民間企業に売却され、昭和35(1960)年、設立から80年の歴史を閉じた
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「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)。写真の左端に省三の胸像。広大な敷地にあった千住製絨所は昭和20(1945)年に民間企業に売却され、昭和35(1960)年、設立から80年の歴史を閉じた
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「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)(構内に展示された省三関係の品)の写真
「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)(構内に展示された省三関係の品)の写真

「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)。除幕式に合わせ、構内に展示された省三関係の品。陸軍の制服も展示された
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「東京千住製絨所初代所長故井上省三胸像除幕式写真」(山口県文書館蔵)。除幕式に合わせ、構内に展示された省三関係の品。陸軍の制服も展示された
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「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」より厚狭部分(山口県文書館蔵)の写真
「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」より厚狭部分(山口県文書館蔵)の写真

「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」より厚狭部分(山口県文書館蔵)。江戸時代中期の作。黄色の太い線は山陽道。青色が厚狭川。橋の東が、宿場町として栄えた厚狭市。厚狭毛利家の居館や省三が学んだ郷校は、画面中心部の下、赤く塗られた寺(は・養学院)の西にあった
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「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」より厚狭部分(山口県文書館蔵)。江戸時代中期の作。黄色の太い線は山陽道。青色が厚狭川。橋の東が、宿場町として栄えた厚狭市。厚狭毛利家の居館や省三が学んだ郷校は、画面中心部の下、赤く塗られた寺(は・養学院)の西にあった
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  1. 毛利一門の一つ。毛利元就(もとなり)の五男を始祖とするとされ、跡を継いだ元就の八男が厚狭郡(現在の山陽小野田市など)を拝領。その嫡男・元宣(もとのぶ)が郡(こおり)に居館を構えた。 本文※1へ戻る
  2. 藩内で幕末に結成された諸隊を、藩が解散し、常備軍を編成することになった際、藩の選抜に不平を感じた多くの兵士が反乱を起こした事件。 本文※2へ戻る
  3. 伏見宮邦家親王の第9王子。明治天皇の義理の叔父。 本文※3へ戻る
  4. 医家の三浦家に生まれ、萩藩医・青木研蔵の養子に。外交官の道を進み、外務大臣などを務めた。 本文※4へ戻る
  5. 明治4(1871)年から明治6(1873)年にかけて欧米を視察した使節団。 本文※5へ戻る
  6. 工場があるザーガン市は、現在ポーランド領。 本文※6へ戻る
  7. 毛織物を作ること。 本文※7へ戻る
  8. 厚地で、一般には織目が見えないまで加工仕上げされた毛織物。 本文※8へ戻る
  9. ドイツの有力な染色業者だった人物の娘。省三が工場で働いていたとき、学校の教頭夫妻の家に下宿。その妻の妹がヘードビッヒ。家族ぐるみで親しかった。 本文※9へ戻る
  10. 省三には、留学前、養家が決めた許嫁がいたため、ヘードビッヒとの結婚に際し、実父や青木周蔵らが奔走した。 本文※10へ戻る
  11. 三木克彦『井上省三とその妻子-ルードルフ・ケーニッヒの手記から‐』。 本文※11へ戻る
  12. 美祢郡(現在の美祢市)出身。ドイツで森林学を学び、帰国後、山林行政に尽力。東京山林学校長、東京農林教授などを務めた。妻は松野クララ。なお「礀」の字は、正しくは門構えの中に「日」。 本文※12へ戻る
  13. 松野が作った文の書は、幕末、吉田松陰(よしだ しょういん)に影響を受け、明治時代、内閣少書記官となった岡守節(おか もりさだ)が担当。 本文※13へ戻る
  14. ヘードビッヒは明治39(1906)年に死去。ハナはノーベル生理学・医学賞を受賞した細菌学者ロベルト・コッホのおい、鉱山技師ヘルマン・コッホと結婚し、3人の子をもうけ、大正11(1922)年に死去。 本文※14へ戻る
  15. 肺結核と診断され、療養のため熱海へ。死を覚悟し、実兄への最後の手紙では、万事は青木周蔵らに相談して取り計らってほしいと依頼。また、海がよく見える熱海の海蔵寺を、自ら墓所に定めた。 本文※15へ戻る

参考文献