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(左)周蔵の妻・エリザベート・フォン・ラーデ・青木。(右)周蔵と娘のハナ(いずれも那須塩原市教育委員会提供)の写真

(左)周蔵の妻・エリザベート・フォン・ラーデ・青木。(右)周蔵と娘のハナ(いずれも那須塩原市教育委員会提供)

不平等条約の改正に力を尽くした“独逸翁”青木周蔵

明治時代、ドイツに留学し、木戸孝允に高く評価され、外交官の道へ。そしてドイツの貴族の娘と結婚。
ドイツ通の外務大臣として不平等条約の改正に力を尽くした青木周蔵を紹介します。
幕末に結ばれた不平等条約の改正に向けて、明治時代、さまざまな人物が力を尽くしました。そうした中の一人にドイツの貴族の娘と結婚し、“独逸(ドイツ)翁” “独逸の化身”とも呼ばれたドイツ通の外務大臣、青木周蔵(あおき しゅうぞう)がいます(※1)
周蔵は弘化元(1844)年、小埴生(おはぶ)村(現在の山陽小野田市)の医家・三浦(みうら)家の長男として生まれました。宇部村(現在の宇部市)の郷校(ごうこう)(※2)で学び、中津(現在の大分県中津市)の私塾へ。帰郷後、萩藩医(※3)の弟子となり、慶応元(1865)年には藩の洋学のリーダー的存在だった青木家の婿養子となります(※4)。しかし長崎留学、海外留学を熱望するようになり、木戸孝允(きど たかよし)らに働きかけ、藩命で慶応3(1867)年に長崎へ、翌年には医学修業を目的としたプロシア(ドイツ)への留学をかなえます。
ところがドイツの大学に入ると、医学ではなく、以前からひそかに関心を抱いていた政治学を学び始めます。そのころ2人の萩藩出身者が軍制視察のためドイツを訪れ、そのうちの一人(※5)からは藩に無断で転向したことを強く非難されますが、もう一人の人物、山県有朋(やまがた ありとも)(※6)からは理解され、力を得ます。明治5(1872)年、岩倉使節団の副使として木戸が欧州にやってくると、留学で培った見識を高く評価され、木戸によって外交官への道が開かれます。
明治7(1874)年に帰国し、外務省本局に出仕。間もなく、萩の青木家から離縁の話が持ち上がります。こじれる話を周蔵と青木家の間に立ち、何度も仲介した中心人物は木戸でした。そんな騒動のさなか、周蔵はドイツ特命全権公使を拝命。木戸の尽力で青木家の娘との離縁は成立し、青木家は周蔵が相続することで落着します。ドイツに再び渡った周蔵は、恋愛していた貴族の娘エリザベートと婚約。木戸に手紙で知らせると大いに喜ばれ、明治10(1877)年3月に結婚。周蔵を高く評価し、周蔵が慈父のように尊敬した木戸は2カ月後、亡くなります。

晩年、萩の名物“クネンボ”の味を、愛する我が子に

その後、周蔵は外交の第一線で活躍していきます。明治22(1889)年、第一次山県内閣で初めて外務大臣に就任。次の内閣でも留任し、条約改正に向けてイギリスとの交渉を有利に進めます。ところが来日したロシアの皇太子が日本人に斬り付けられる「大津事件(※7)」が発生。その責任を取らされ、外務大臣を辞任します。
第二次伊藤博文(いとう ひろぶみ)内閣では、陸奥宗光(むつ むねみつ)が外務大臣として条約改正に当たりましたが、周蔵の外交官としての腕を評価され、ドイツ公使・イギリス公使を兼任して条約改正の交渉に臨みます。そしてついに明治27(1894)年にイギリスと、2年後にはドイツと対等条約を結び、治外法権の撤廃に成功。しかし翌年、ドイツとの条約締結時に“越権行為あり”として帰国を命じられます(※8)。第二次山県内閣では再び外務大臣に。第一次西園寺公望(さいおんじ きんもち)内閣では駐アメリカ大使を務めますが、再び “越権行為あり”として召還(※9)。度々挫折を味わいました。
生涯を通じてドイツ滞在は通算23年に及び、家庭内で日本語は一切使わなかったという周蔵。国内では、那須(栃木県)に別荘を建て、妻や一人娘のハナと時を過ごしました。周蔵はハナのことを山県への手紙に“マイ・フェイバリット・ドォター(※10)”と書くほど溺愛。それほど愛した娘はドイツの伯爵と結婚し、周蔵夫妻のもとを離れます。
晩年、体調を崩した周蔵に、異国で暮らす娘夫婦が子どもを連れて日本へ帰るという知らせが届きます。知らせを受けて、周蔵は萩に住む青木家の親族(※11)へ手紙を出します。それは「御地の名物『厚皮ク子ブ(クネブ、クネンボ)(※12)』五六十個」「萩蒲鉾(かまぼこ)(※13)少々宛(ずつ)御送り下され」、さらに“クネンボは西洋にない品なので娘へ与えたく”…と重ねて懇願する手紙(※14)。自分の人生を切り開いてくれた萩の味を、異国の娘夫婦と孫に知ってほしかったのでしょう。
努力を重ねて道を開き、意志を貫き、先輩に恵まれ、日本を欧米列強と対等にするため我が道を突き進んだ周蔵。遠く離れても、長州との絆は続いていました。
山陽小野田市埴生にある周蔵生誕地記念碑(山陽小野田市社会教育課提供)の写真
山陽小野田市埴生にある周蔵生誕地記念碑(山陽小野田市社会教育課提供)の写真

山陽小野田市埴生にある周蔵生誕地記念碑(山陽小野田市社会教育課提供)。「故外務大臣青木子爵誕生地記念」とある。周蔵が6歳のころ、一家は藤曲村(現在の宇部市)へ。かつての藤曲村にある現在の宇部市立藤山小学校に周蔵は明治37(1904)年、ドイツから取り寄せたというプラタナスの苗を贈った
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山陽小野田市埴生にある周蔵生誕地記念碑(山陽小野田市社会教育課提供)。「故外務大臣青木子爵誕生地記念」とある。周蔵が6歳のころ、一家は藤曲村(現在の宇部市)へ。かつての藤曲村にある現在の宇部市立藤山小学校に周蔵は明治37(1904)年、ドイツから取り寄せたというプラタナスの苗を贈った
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萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」の写真
萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」の写真

萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」。安政6(1859)年建築。周蔵の養祖父に当たる周弼は、国内屈指の蘭学者だった。周蔵の養父・研蔵は維新後、天皇の大典医となった
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萩市江戸屋横町にある「青木周弼・研蔵・周蔵旧宅」。安政6(1859)年建築。周蔵の養祖父に当たる周弼は、国内屈指の蘭学者だった。周蔵の養父・研蔵は維新後、天皇の大典医となった
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青木家のすぐ近くにある「木戸孝允旧宅」の写真
青木家のすぐ近くにある「木戸孝允旧宅」の写真

青木家のすぐ近くにある「木戸孝允旧宅」。木戸孝允は萩藩医・和田昌景の長男として生まれ、江戸に出るまでの約20年間をここで過ごした
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「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)の写真
「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)の写真

「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)。周蔵は、生まれ故郷に近い宇津井村(現在の下関市)出身でドイツに留学し、“日本の毛織物工業の父”となった井上省三(いのうえ せいぞう)と親しかった。省三は向って左から二番目。省三の妻もドイツ人だった(※前号の“日本の毛織物工業の父”井上省三」参照
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「井上省三家族写真」(山口県文書館蔵)。周蔵は、生まれ故郷に近い宇津井村(現在の下関市)出身でドイツに留学し、“日本の毛織物工業の父”となった井上省三(いのうえ せいぞう)と親しかった。省三は向って左から二番目。省三の妻もドイツ人だった(※前号の“日本の毛織物工業の父”井上省三」参照
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「青木周蔵写真」(那須塩原市教育委員会提供)の写真
「青木周蔵写真」(那須塩原市教育委員会提供)の写真

「青木周蔵写真」(那須塩原市教育委員会提供)。周蔵は栃木県那須野に広大な土地を入手し、農業・山林経営の知識を生かして開墾。その青木開墾地に農場管理を兼ねた洋風別荘を建築した。また、ドイツから鹿を輸入して飼育。狩猟を楽しむなどドイツ風領主生活を楽しんだ
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「青木周蔵写真」(那須塩原市教育委員会提供)。周蔵は栃木県那須野に広大な土地を入手し、農業・山林経営の知識を生かして開墾。その青木開墾地に農場管理を兼ねた洋風別荘を建築した。また、ドイツから鹿を輸入して飼育。狩猟を楽しむなどドイツ風領主生活を楽しんだ
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栃木県那須塩原市にある国の重要文化財「旧青木家那須別邸」(那須塩原市教育委員会提供)の写真
栃木県那須塩原市にある国の重要文化財「旧青木家那須別邸」(那須塩原市教育委員会提供)の写真

栃木県那須塩原市にある国の重要文化財「旧青木家那須別邸」(那須塩原市教育委員会提供)。周蔵は青木開墾地に養父・養祖父の墓を移し、青木家の墓地も設けた。また、青木開墾地に青木尋常小学校を開校。教育を支援した
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栃木県那須塩原市にある国の重要文化財「旧青木家那須別邸」(那須塩原市教育委員会提供)。周蔵は青木開墾地に養父・養祖父の墓を移し、青木家の墓地も設けた。また、青木開墾地に青木尋常小学校を開校。教育を支援した
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  1. 周蔵は条約改正の他にも、大日本帝国憲法の起草に大きな役割を果たした法学者など、さまざまな分野のドイツ人お雇い外国人を明治政府に推薦。日本が法制・地方制度・軍事・医学などの分野でドイツを手本として近代国家づくりを進める上で、大きな役割を果たした。 本文※1へ戻る
  2. 領主が家臣らのために開設した学校。 本文※2へ戻る
  3. 藩主の侍医となった能美隆庵(のうみ りゅうあん)。周蔵はその後、藩の医学所「好生堂」で学んだ。 本文※3へ戻る
  4. 大坂・江戸などで学んで萩藩の藩医となり、藩の医学所で西洋医学の教育などに尽力した蘭方医・青木周弼(しゅうすけ)と、その弟でやはり蘭方医として活躍した研蔵(けんぞう)。周弼の長女が研蔵の養子となり、周蔵はその婿として青木家に入った。 本文※4へ戻る
  5. 御堀耕助(みほり こうすけ)。萩藩上級武士の家に生まれ、幕末、尊王攘夷の志士として活躍した。 本文※5へ戻る
  6. 松下村塾で学び、奇兵隊で活躍。明治22(1889)年・明治31(1898)年に内閣を組閣。 本文※6へ戻る
  7. 明治24(1891)年、滋賀県大津市で、ロシア皇太子が巡査に刺傷された事件。 本文※7へ戻る
  8. 周蔵が調印した日独通商航海条約に、不必要にドイツに譲歩した条項があるとして問題になった。 本文※8へ戻る
  9. 日本からの移民が増大して排日運動が高まる中、移民問題に関して独断でアメリカへ明治政府の方針とは異なる提案をしたという。 本文※9へ戻る
  10. 水沢周『日本をプロシアにしたかった男 青木周蔵』による。 本文※10へ戻る
  11. 周蔵の最初の妻だった女性の妹。 本文※11へ戻る
  12. インドシナ原産で日本に伝わり、江戸時代、盛んに栽培されたかんきつ類。温州(うんしゅう)ミカンの花粉親であり、温州ミカンに似ているが、独特の匂いがあり、味は濃厚。幕末、萩藩主が英国海軍提督をもてなした宴でも用いられた。現在“幻の果実”で、萩でも栽培されていない。おもしろ山口学「幕末の長州のお殿様と英国海軍キング提督の饗応」参照。 本文※12へ戻る
  13. 蒲鉾板の下から炙り焼きにする長州独自の製法による「焼き抜き蒲鉾」と思われる。 本文※13へ戻る
  14. 水沢周『日本をプロシアにしたかった男 青木周蔵』による。 本文※14へ戻る

参考文献