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岩国市の錦川に架かる国の名勝「錦帯橋」の写真

岩国市の錦川に架かる国の名勝「錦帯橋」

錦帯橋はいつから「日本三奇橋」? 錦帯橋の本当の名は凹凸橋?

日本三奇橋の一つとして有名な岩国の名橋「錦帯橋」の意外な歴史を、岩国徴古館で7月5日(日曜日)まで開催される「史料でみる江戸時代の錦帯橋」の展示をもとに紹介します。
岩国の錦川に架かる、美しい五連のアーチ型の木造橋「錦帯橋(きんたいきょう)」。延宝元(1673)年に第3代岩国藩主(※1)・吉川広嘉(きっかわ ひろよし)が錦川に創建したもので、日本の名橋の一つとして有名です。しかしそれほど有名な橋でありながら、実はあまり知られていない興味深い話、意外な歴史があります。
その一つが「日本三奇橋」という表現です。その三奇橋に挙げられる橋としては「錦帯橋・甲斐の猿橋(さるはし)(※2)・木曽の桟(かけはし)(※3)」をはじめさまざまな説があるのですが(※4)、いずれの説でも錦帯橋は含まれます。
では、いつごろから三奇橋と言い始めたのでしょうか。確かなことは不明ですが、宝暦5(1755)年に猿橋のたもとに建てられた石碑『猿橋記』が、三奇橋という呼び名のルーツの一つではと推測されます(※5)。その石碑には「我大日本橋梁之奇巧」、つまり日本の珍しくて巧みな橋として三つの橋の名が刻まれています。中でも「周防(すおう)之算橋(さんばし)」という表現で、真っ先に挙げられているのが錦帯橋。そして他の二つの橋が「岐岨之懸橋(きそのかけはし)」と「峡之猿橋(かいのさるはし)」。創建から約80年を経た江戸中期には、錦帯橋はすでに日本で三本の指に入る奇巧な橋として遠くまで知られていたことが分かります。

本当の名は大橋? 凹凸橋? 凸凹橋? 算盤橋? 読み方の公的決定は意外にも…

意外な歴史といえば、橋の名についてです。錦帯橋という名は、実は創建当時から定まっていたわけではなく、岩国藩の史料では、ほとんど「大橋」「橋」と表記されています。岩国藩内での表記としては、これで充分だったのでしょう。
とはいえ、江戸時代に錦帯橋という名がなかったわけでもありません(※6)。錦帯橋と記されている最古の史料は、宝永3(1706)年に岩国の儒学者・宇都宮遯菴(うつのみや とんあん)が書いた『極楽寺亭子記(ごくらくじていしき)』。そこには、興味深いことに、まず橋の名を「凹凸(おうとつ)橋」と記し、別名として錦帯橋を挙げています。そして錦帯橋の名前の由来として、錦見(にしみ)の里に近いからと記しています。
橋の名は他にも数多くあり、岩国藩の家老が享保8(1723)年に編さんした地誌『巌邑志(がんゆうし)』では「錦帯」「凌雲(りょうん)橋」「凸凹(でこぼこ)橋」ともいう、と記されています。他にも橋の名は「五竜橋」「帯雲(たいうん)橋」「青海橋」「青海波橋」「竜雲橋」…等々。橋の裏側を下から眺めると、そろばんに似ていることから「算盤(そろばん)橋」とも呼ばれ、その呼び方は比較的近年まで親しまれてきました。
また、錦帯橋という漢字の読み方も史料によって異なり、「きんたいきょう」とルビが振られたものもあれば、「きんたいはし」と記されたものもあります。今では“きんたいきょう”と当たり前のように言いますが、実は“きんたいきょう”として岩国市が公式に統一したのは昭和43(1968)年のこと(※7)。まだ50年余りしかたっていないことも驚きです。
多様な橋の名は、奇巧で美しい橋をあちこちから眺め入り、どんな言葉で例えようかと考えを巡らした、時の旅人たちの姿も浮かび上がらせてくれます。
錦帯橋まつりの写真
錦帯橋まつりの写真

錦帯橋は江戸時代、岩国藩の武士など限られた人のみが利用でき、それ以外の人は渡し舟を利用した。ただし他藩の大名が岩国を通過する際、渡し舟を洪水で使えない場合などは、許可を得て錦帯橋を渡ることもあった。写真は例年4月末に開催される「錦帯橋まつり」(今年は中止)
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錦帯橋は江戸時代、岩国藩の武士など限られた人のみが利用でき、それ以外の人は渡し舟を利用した。ただし他藩の大名が岩国を通過する際、渡し舟を洪水で使えない場合などは、許可を得て錦帯橋を渡ることもあった。写真は例年4月末に開催される「錦帯橋まつり」(今年は中止)
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山梨県大月市の桂川に架かる国の名勝「猿橋」(山梨県大月市観光協会 提供)の写真
山梨県大月市の桂川に架かる国の名勝「猿橋」(山梨県大月市観光協会 提供)の写真

山梨県大月市の桂川に架かる国の名勝「猿橋」(山梨県大月市観光協会 提供)。橋脚を用いず、両岸の岸壁から橋材をせり出し、組み合わせた構造の刎橋となっている。錦帯橋と同じく「日本三奇橋」の一つ
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山梨県大月市の桂川に架かる国の名勝「猿橋」(山梨県大月市観光協会 提供)。橋脚を用いず、両岸の岸壁から橋材をせり出し、組み合わせた構造の刎橋となっている。錦帯橋と同じく「日本三奇橋」の一つ
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二代歌川国貞「周防国錦帯橋遠見図」(岩国徴古館蔵)の写真
二代歌川国貞「周防国錦帯橋遠見図」(岩国徴古館蔵)の写真

二代歌川国貞「周防国錦帯橋遠見図」。嘉永5(1852)年の作(岩国徴古館蔵)。右端の漢字に「きんたいきょう」ではなく、「きんたいはし」とルビが振られている
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二代歌川国貞「周防国錦帯橋遠見図」。嘉永5(1852)年の作(岩国徴古館蔵)。右端の漢字に「きんたいきょう」ではなく、「きんたいはし」とルビが振られている
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三代歌川広重「日本地誌略図」(岩国徴古館蔵)の写真
三代歌川広重「日本地誌略図」(岩国徴古館蔵)の写真

三代歌川広重「日本地誌略図」。明治9(1876) 年の作(岩国徴古館蔵)。「きんたいきょう」と表記されている
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三代歌川広重「日本地誌略図」。明治9(1876) 年の作(岩国徴古館蔵)。「きんたいきょう」と表記されている
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現存最古の錦帯橋図面(岩国徴古館蔵)(部分)の写真
現存最古の錦帯橋図面(岩国徴古館蔵)(部分)の写真

元禄12(1699)年の錦帯橋架け替え時に作成された、現存最古の錦帯橋図面(岩国徴古館蔵)(部分)。着色されたV字形の「鞍木(くらぎ)」と緩やかな曲線の「助木(たすけぎ)」は、創建時になかった補強部材。天和2(1682)年に考案され、通行時の揺れが抑えられるようになった
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元禄12(1699)年の錦帯橋架け替え時に作成された、現存最古の錦帯橋図面(岩国徴古館蔵)(部分)。着色されたV字形の「鞍木(くらぎ)」と緩やかな曲線の「助木(たすけぎ)」は、創建時になかった補強部材。天和2(1682)年に考案され、通行時の揺れが抑えられるようになった
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錦帯橋の裏側の写真
錦帯橋の裏側の写真

橋の裏側を下から眺めると、そろばんに似ていることから「算盤(そろばん)橋」の名でも親しまれてきた
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橋の裏側を下から眺めると、そろばんに似ていることから「算盤(そろばん)橋」の名でも親しまれてきた
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  1. 岩国藩は萩藩の支藩。毛利元就(もうり もとなり)の次男・吉川元春(もとはる)の第三子、広家(ひろいえ)を初代とする。江戸時代は藩ではなく、岩国領だったが、明治元(1868)年に吉川氏が城主格を許され、岩国藩となった。 本文※1へ戻る
  2. 山梨県大月市の桂川に架かる木橋。橋脚を用いず、両岸から橋材をせり出し、組み合わせた構造の刎橋(はねばし)。創建時期は不明だが、鎌倉時代の古文書にその名がある。 本文※2へ戻る
  3. 長野県上松町にかつてあった橋で、崖に沿って板をかけ渡した橋。 本文※3へ戻る
  4. 木曽の桟の代わりに、富山県宇奈月町にかつてあった、刎橋として日本一の規模だった黒部の愛本橋(あいもとばし)、徳島県三好市の祖谷(いや)のかずら橋、栃木県日光市の神橋(しんきょう)を入れる場合もある。 本文※4へ戻る
  5. 岩国の洞泉寺(とうせんじ)の住職だった一元(いちげん)が元禄11(1698)年に書いた『根笠行紀(ねかさこうき)』に僧の轍外(てつがい)が加えた注釈も、三奇橋のルーツの一つ。「飛橋」という表現で、凌雲橋(錦帯橋)の他、猿橋、越中堺川橋(黒部の愛本橋のことと思われる)を挙げている。『猿橋記』よりも記述は古い。 本文※5へ戻る
  6. 吉川広嘉が見て、錦帯橋の発想のヒントになった中国の「西湖遊覧志(せいこゆうらんし)」の中に「錦帯」の表記があることから、創建当初から錦帯橋という橋の名はあったとする説もある。 本文※6へ戻る
  7. 昭和43(1968)年6月15日発行『市報いわくに』。 本文※7へ戻る

岩国徴古館「史料でみる江戸時代の錦帯橋」

開催期間:7月5日(日曜日)まで
三奇橋のルーツや、錦帯橋のさまざまな別名など、江戸時代などの史料から紹介。錦帯橋の意外と知られざる興味深い話を知ることができます。
※新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、5月24日(日曜日)まで臨時休館中です。なお、5月25日(月曜日)は休館日です。

参考文献