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山口市指定史跡「雲谷庵跡」の写真

山口市指定史跡「雲谷庵跡」。近藤清石ら有志の人々によって明治17(1884)年、「雲谷庵」は再建された

雪舟のアトリエ「雲谷庵」と、庵を甦らせた近藤清石

現在、山口市にある雪舟のアトリエ「雲谷庵」は明治時代に再建されたもの。そこには、再建に関わった著名な郷土史研究者たちの思いやこだわりがありました。雲谷庵に秘められた歴史を紹介します。
山口市天花(てんげ)、七尾山の麓にある茅葺(かやぶき)屋根の小さな庵。室町時代の画僧・雪舟(せっしゅう)のアトリエ「雲谷庵(うんこくあん)」です。現在の庵は、「大内塗(おおうちぬり)」(※1)を復興させた大内氏研究の先駆者・近藤清石(こんどう きよし)(※2)らにより、明治17(1884)年に再建されたもの。とはいえ、それは単なる再建にとどまらず、さまざまな人々の思いが受け継がれて現在に至るものです。
そもそも雪舟が京都から西国有数の大名・大内氏の本拠である山口に来たのは、享徳3(1454)年頃のこと(※3)。雪舟のアトリエについては、雲谷庵の名だけでなく、「雲谷軒」と記したものなどもあり(※4)、アトリエには雪舟とは旧知の仲だった京都の高僧や、雪舟のパトロン大内氏も訪れています。雪舟の没後、雲谷庵は弟子たちに受け継がれますが、大内氏の滅亡後、荒廃してしまいます。
文禄2(1593)年、雲谷庵の地は中国地方の覇者となっていた毛利輝元(もうり てるもと)から、毛利家のお抱え絵師・原治兵衛直治(はら じへえ なおはる)という人物に与えられます。それは直治が、かつて大内氏が所有し、毛利家所有となっていた雪舟筆「四季山水図」(※5)を模写し、出来栄えを認められたことによるものといいます。直治は、輝元から、雪舟の後継者として、その四季山水図と雲谷庵の地を与えられ、それを機に雲谷等顔(とうがん)と改名。等顔は京都でも活躍し、当時の画壇を代表する絵師の一人に。等顔の没後、雲谷庵と四季山水図は、等顔を祖とする「雲谷派」に代々守られていきました。

あえて大内氏ゆかりの歴史ある寺社の古材を用いて復元

ところが雲谷庵はいつしか失われ、明治時代初めには畑に。このままでは全く分からなくなってしまう…と嘆いた近藤清石ら有志が土地を買い取り、雲谷庵を再建します。
清石は元萩藩士。明治維新後は山口県の修史編さん事業の中心人物として活躍したほか、郷土史研究に熱心に取り組み、生涯でなんと1,600巻を超える膨大な著書を手掛けた驚異的な人物。神官でもありました。そうした人物ゆえでしょうか、雲谷庵再建にもこだわりを持ち、大内氏の歴史にとって重要な山口の寺社から古材を集めて再建したのです。
例えば大内氏の氏寺として栄えた興隆寺(こうりゅうじ)の僧房から扉を。大内氏が伊勢から山口へ勧請(かんじょう)した“西のお伊勢様”(※6)の門から蟇股(かえるまた)(※7)を。中には、柱をもらい受けた仁平寺(にんぺいじ)のように、かつては多くの塔頭(たっちゅう)や五重塔までありながら、お堂一つだけがかろうじて残る状態になっていた寺社も…(※8)。そうした古材を生かすことで、かつての繁栄が失われた寺社や雲谷庵に、もう一度命を吹き込もうとしたのでしょう。
また、吉田松陰(よしだ しょういん)に兵学を学び、地雷火(じらいか)の実験、写真術、バターの製造などにも挑み、雲谷派の絵師でもあった幕末維新の奇才・小野為八(おの ためはち)による「雲龍図」を、雲谷庵の天井画に。さらに庵の復元を祝い、明治19(1886)年には毛利家から伝雪舟筆「雲龍図」を雲谷庵にもらい受けます(※9)
清石らは雲谷庵の活用も忘れませんでした。それは毎月の短歌会。当時の山口県を代表する実業家(※10)をはじめ、年齢や男女を問わず、さまざまな人々が集い、明治16(1883)年から清石が亡くなる前月の大正4(1915)年12月まで続けられました。
その後、雲谷庵は再び荒廃した時期がありましたが、有志の人々が動き、昭和57(1982)年、山口市に寄贈されました。雪舟のアトリエ雲谷庵。荒廃と復活を繰り返しながら、雪舟を誇りに思う人々によって守られ続けています。
「近藤清石写真」(山口県文書館蔵)
「近藤清石写真」(山口県文書館蔵)

「近藤清石写真」(山口県文書館蔵)。山口市にあった自宅「霜堤居」庭先での撮影と思われる写真。自宅にも大内氏ゆかりの寺社などの古材を用いた二間四面の客殿を設けていた
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「近藤清石写真」(山口県文書館蔵)。山口市にあった自宅「霜堤居」庭先での撮影と思われる写真。自宅にも大内氏ゆかりの寺社などの古材を用いた二間四面の客殿を設けていた
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「大内塗膳」(山口市歴史民俗資料館蔵)の写真
「大内塗膳」(山口市歴史民俗資料館蔵)の写真

「大内塗膳」(山口市歴史民俗資料館蔵)。明治復興期のものと思われる。なお、大内塗復興は、明治天皇の山口巡幸の際に古器物をご覧いただくこととなり、清石がその準備調査中、毛利家所蔵品の中に室町時代の漆器の優品を発見したのが始まり
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「大内塗膳」(山口市歴史民俗資料館蔵)。明治復興期のものと思われる。なお、大内塗復興は、明治天皇の山口巡幸の際に古器物をご覧いただくこととなり、清石がその準備調査中、毛利家所蔵品の中に室町時代の漆器の優品を発見したのが始まり
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『雲谷庵誌』(山口県文書館蔵)の写真
『雲谷庵誌』(山口県文書館蔵)の写真

『雲谷庵誌』(山口県文書館蔵)。近藤清石が雲谷庵再建についてまとめたもの。どの寺社の古材を用いたかも記されている。明治17(1884)年発行。発行人は、清石を支え、山口市で多くの書籍を発行して文化振興に寄与した宮川臣吉
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『雲谷庵誌』(山口県文書館蔵)。近藤清石が雲谷庵再建についてまとめたもの。どの寺社の古材を用いたかも記されている。明治17(1884)年発行。発行人は、清石を支え、山口市で多くの書籍を発行して文化振興に寄与した宮川臣吉
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雲谷等塊筆「鯉高仙人図」(山口市歴史民俗資料館蔵)の写真
雲谷等塊筆「鯉高仙人図」(部分)(山口市歴史民俗資料館蔵)の写真

雲谷等塊(とうかい)筆「鯉高仙人図」(山口市歴史民俗資料館蔵)。雲谷等塊とは、松下村塾の塾生だった奇才・小野為八の画号。雲谷庵の西面の玄関の天井に、為八が描いた「雲龍図」がある
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雲谷等塊(とうかい)筆「鯉高仙人図」(部分)(山口市歴史民俗資料館蔵)。雲谷等塊とは、松下村塾の塾生だった奇才・小野為八の画号。雲谷庵の西面の玄関の天井に、為八が描いた「雲龍図」がある
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雲谷庵西面玄関の蟇股の写真
雲谷庵西面玄関の蟇股の写真

雲谷庵、西面玄関の蟇股。再建に用いられた高嶺太神宮(こうのみねだいじんぐう)の門の古材。高嶺太神宮(現在の山口大神宮)は永正15(1518)年、大内義興(よしおき)が創建。かつて伊勢大神宮から神霊を迎えることができたのは山口のみという
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雲谷庵、西面玄関の蟇股。再建に用いられた高嶺太神宮(こうのみねだいじんぐう)の門の古材。高嶺太神宮(現在の山口大神宮)は永正15(1518)年、大内義興(よしおき)が創建。かつて伊勢大神宮から神霊を迎えることができたのは山口のみという
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雲谷庵西面玄関の写真
雲谷庵西面玄関の写真

雲谷庵、西面玄関。扉は興隆寺の僧房のもの。横の柱は大内義隆を祀(まつ)った宝現霊社拝殿のもの。宝現霊社は江戸時代、龍福寺境内から多賀神社境内、再び龍福寺境内、後河原へ移り、明治初期に築山跡の築山神社の祭神として合祀。現在の築山神社の社殿は興隆寺にあった東照宮を移したもの。なお、龍福寺境内にも現在、大内氏歴代当主をまつる宝現霊社がある
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雲谷庵、西面玄関。扉は興隆寺の僧房のもの。横の柱は大内義隆を祀(まつ)った宝現霊社拝殿のもの。宝現霊社は江戸時代、龍福寺境内から多賀神社境内、再び龍福寺境内、後河原へ移り、明治初期に築山跡の築山神社の祭神として合祀。現在の築山神社の社殿は興隆寺にあった東照宮を移したもの。なお、龍福寺境内にも現在、大内氏歴代当主をまつる宝現霊社がある
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  1. 大内氏が山口を治めていたころ、山口で盛んに漆器が作られていたことや、大内菱が用いられていたことに注目し、清石が漆器製造を復興させた。なお、室町時代には大内塗の名称はない。 本文※1へ戻る
  2. 『大内氏実録』『大内氏実録土代』など、多くの著書を残した。 本文※2へ戻る
  3. 雪舟が山口へ来た理由として、当時、大内教弘(のりひろ)が幕府から遣明船一隻の経営権を得ていたことから、水墨画の本場・中国へ渡る機会を得るためや、教弘の居所「築山館(つきやまやかた)」の画事のためとする説などがある。 本文※3へ戻る
  4. 雲谷軒の名は「四季山水図」(毛利博物館蔵)の跋文巻に記載。雲谷庵の場所にも諸説あるが、江戸時代後期の『防長風土注進案』では、天花村に雲谷庵の旧跡があることが記されている。 本文※4へ戻る
  5. 全長16メートルに及ぶ雪舟の代表作。国宝。毛利博物館蔵。 本文※5へ戻る
  6. 現在の山口大神宮。おもしろ山口学「大内義興と足利義稙 第2回 船岡山の戦いと、将軍の政権を支えた義興(2013年3月8日)」参照。 本文※6へ戻る
  7. 社寺建築などで、梁(はり)の上などに設置する、カエルが股を広げたような形の建築部材。 本文※7へ戻る
  8. そのお堂も後に他の寺へ引き取られた。他に、現在は廃寺となっている観音寺客殿の窓など。なお、観音寺の本堂は洞春寺(とうしゅんじ)に移築され、観音堂として現在、国の重要文化財。 本文※8へ戻る
  9. その後、雲谷庵跡の管理を担った俊龍寺が所蔵して守り、現在は山口県立美術館寄託。 本文※9へ戻る
  10. 小野田セメントを創業した笠井順八(かさい じゅんぱち)。 本文※10へ戻る

雲谷庵展-アトリエからサロンへ-

再建後の雲谷庵で行われていた短歌会に注目し、どのように行われていたのかを初めて詳しく分析した展示を開催中。また、かつて毛利家から雲谷庵に与えられ、現在は俊龍寺が所蔵する伝雪舟筆「雲龍図」や、小野為八の作品「鯉高仙人図」なども展示しています。
期間:12月6日(日曜日)まで
場所:山口市歴史民俗資料館

参考文献