今も行われている節分のさまざまな行事・風習。疫病をはやらせるという「疫鬼(えきき)」を追い払うため、古く中国から朝廷にもたらされ、大みそかに行ってきた「追儺(ついな)式」などがルーツといわれます
(※1)。節分というと現在一般的には“立春の前日”を指します。しかし、節分とは本来、二十四節気(せっき)
(※2)における “立春・立夏・立秋・立冬の前日”。つまり“四季の変わり目”を意味していました。
江戸時代、萩藩が各村の情報をまとめた地誌『防長風土注進案』
(※3)。そこには、節分の行事・風習について、どのように記されているのでしょうか。
宮市町(現在の防府市)の記載では、豆まきなどについて、次のような文章があります。「年の夜(としのよ)は鬼の豆とて大豆にトベラの葉を入れてこれを煎(い)り
(※4)、ますに入れて神々へそなえ置き、しばらくして下ろし、亭主または手代、つかいなどの男性が大声にて『鬼ハ外、福ハ内』と言いつつ、くだんの豆を内外にまきちらし」「亭主をはじめ家の者は残らず全員、氏神へ詣で、よき歳を祈り、通夜
(※5)などをする」「年回りの悪い人は厄払いといって、その豆を歳の数ほど紙に包み、銭一文を入れ、四ツ辻にて後ろへ投げ帰る」「その夜、また、よき夢を結ぼうと宝船を書いた紙を敷いて寝る者もある」
(※6)。
堀村(現在の山口市)の記載では「除夜 たら花
(※7)を飾り、煎り豆をまく。火を新たにし、この豆を焼いて月々の晴雨を占う」とあります
(※8)。
これらの文にある「年の夜」「除夜」とは、本来、大みそかの夜のこと。一見、豆まきなどは12月の行事・風習のように読めます。しかし、二十四節気は、立春をもって“新年の始まり”とする考え方です。その考え方でいうと、立春の前日である節分は、まさに大みそかに当たります。
また、現在の太陽暦でこそ節分・立春は2月ですが、旧暦(太陰太陽暦)
(※9)では、二十四節気の立春のころに暦の上でも新年が来ていました。つまり節分を年の夜と捉えることは、かつては暦の上でも不自然ではありませんでした。豆まきなどは、鬼をはらって新年を迎えるという意識で、立春の前夜に行われていたことがうかがえます。
鬼ハ外、福ハ内!! この春こそ、疫鬼退散を!!
節分について、三田尻町(現在の防府市)の記載には「一年の砂を下ろす」といってコンニャクを食べるとあり、今も県内には「大きな年(歳)を取る」といってクジラを食べる風習もあり、こうしたことからも節分が一年の節目という意識をうかがうことができます
(※10)。
また、同じく三田尻町の記載には「楤木(タラノキ)に樒(シキミ)を結い添え、戸口へ立て、土器へ鰯(イワシ)の頭を焼き置く家もままある」という文章もあります。タラノキはトゲ、焼いた鰯やシキミは独特の臭いで魔よけに
(※11)。トベラにも臭いがあり、全国的にその枝や果実を門扉にはさんで節分の魔よけに用いられてきました。
トゲトゲしいもの、臭気のあるものを鬼は嫌うといいます。立春という新しい年を迎える前に行われてきた、節分の行事・風習。先人たちも疫病という鬼に苦しめられ、その退散を神仏に祈り、すがってきた姿が見えてきます。
今年の立春は2月3日。よって、その前日である2月2日が節分となります。節分の日はこれまで長く2月3日が続いてきましたが、その日付が変わり、2月2日となるのは明治30(1897)年以来124年ぶりのことだそうです
(※12)。疫鬼よ、どうか退散を!!